山口久吉の話
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湯西川温泉  仏照山湯覚院慈光寺


                               山 口 久 吉

   ★仏照山湯覚院慈光寺

   此の寺の開基開山はあきらかでないが、慶長十二年八月(1607年)当山五世円蓮
  社、鏡誉上人の時に沢口向の寺と川戸平の寺を、一寺として現在の処に移転した
  とある。
   宗派は浄土宗にして、元禄四年(1691年)今市、如来寺の新末寺となる。
     (如来寺 十二世嘆 蓮社玄序の時)
          無住のこともあったが、檀徒八十三の時もあった。

   寺の敷地面積 七畆十五歩 、本堂間口七間、奥行五間、
  西向きにして本尊阿弥陀如来の立 像丈二尺、が安置されており庫裏は間口三間
  三尺奥行五間であり、他に大広間には大きな囲炉裏、炊事場等があり湯殿山神社
  祭礼時の行人の行屋として使用されていた。
   木造茅ぶき屋根の大きなお寺であった庭も広かったので、このお寺は歌舞伎芝
  居の舞台としても利用されていた。


   ★住職

   慶長年間は鏡誉上人   元禄年間は玄龍和尚   宝暦年間は航誉和尚
   安永年間は純誉和尚と、等順和尚   享和年間は智海和尚 
   文政年間は圓心和尚 その後楢誉和尚   そして明治初年から國弘純碩和尚
   明治、大正、昭和の時代にかけて、大久保 忍和尚、
   昭和から平成にかけて、尾形賢龍和尚        であった。

   以上は慶長年間から約四百年間今に続いた寺の住職であり、寺の歴史を辿って
  きた足跡でありますが現在は残念ながら無住となってしまった。

   過去帳は、天保十二丑歳からのものが現存し、田代山の雪崩事故調査の時拝見
  したことがあり、それ以前のものは見たことがない。 寺記録として、住職が行
  なう毎年の寺の行事等が記された安永三年の記録がある。


   ★湯西川学校創立

   明治八年にこの寺の本堂を仮校舎として湯西川学校を開校した。 教室は本堂
  脇の部屋が当てられ、学科は専ら、読み、書き、算盤、であり、教科書は、いろ
  は数字、名頭、国盡、消息往来、庭訓往来、等で、その他にも大学、中庸、論語
  童子教、實語教、古状揃、御成敗式目、等も授業していたらしく、これ等の古書
  も残されている。 又授業中の罰として、お線香に火をともし本堂前に立たせら
  れた事もあったという。 
   教員は、手塚泰次郎先生(明治十年)  塚原清四郎先生(明治十七年) 
       古口庄重郎先生、古口国平先生、等の名がある。


   ★明治二十八年六月、日向尋常小学校湯西川分教場と改める。

   明治三十四年二月二十四日、井狩利祐村長の時、准訓導の古口庄重郎が赴任し
  てきた。 古口国平 ?? この先生は父、庄重郎の後を継いで務めた先生と思
  われる。


   ★岩魚を食べた生臭さ坊主

   私は営林署勤務中、古口国平さんとは度々お会いし、こんな話を聞いた事があ
  った。 湯西川のお寺で先生をしていたとき!! 寺の住職の大久保和尚とイワ
  ナを夜突きで捕ってきて塩焼きで食べたが、大久保和尚は魚を食べる生臭坊主だ
  ったと、大久保和尚は那須の雲巖寺で修業し、その後湯西川の慈光寺に来て純碵
  和尚の後を継いだ和尚だとおもわれる。



   大正五年七月、現在の役場出張所の敷地に敷地寄付による校舎を新築し、慈光
  寺の寺子屋教室に別れを告げた。 その後このお寺は老朽がはげしく改築の必要
  に迫られ、持丸山にあった北関東一と言われた大欅を伐採し、この木で、昭和三
  十年に現在のお寺に立て替えられたものである。
   寺続きの墓地には歴代の住職の碑が並んで建ててあり、又異彩を放つのは天文
  十八年(1549年)三月吉日の六地蔵逆修供養塔である。 寺の変遷を見つめ続け
  て来たこの供養塔は確かに文化財的な存在である。




                          ふる里探訪 湯西川 12



                   追

   延暦二年( 783)四月廿日に下野国府の国役人が、今の三重県、島根県、佐賀県
  長崎県や奈良県などから、村の各地に移住させ屋敷、畑、山等を与えて住まわせた
  記録が残っている。 国役人は斉藤肥後守、小田原越中守、小台勘解由、片岡豊後
  の名が記されている。

   日陰村  自在寺 創立 持統天皇六年( 691)四月十八日
            再建 弘仁三年( 812)三月三日 弘法大師再興

   日向村  龍蔵寺 建立 持統天皇六年( 691)十二月

   上栗山村 長研寺 建立 不明 再建 弘仁三年( 812)十二月十八日

   土呂部村 称名寺、 川俣村 西光寺、 西川村 安善寺、

   天平神護二年( 766)勝道上人が山岳修行者とし、初めて日光の地に足を踏み入
  れ、延暦元年( 782)大願を成就、地主権現を奉祀、日光山の基礎を創設した。 
  弘仁八年( 817)勝道入寂 後の第一高弟教旻が当山第一世の座主となる。 弘仁
  十一年( 820)弘法大師が登山、嘉祥元年( 848)慈覚大師来山 法流が当山に伝
  わり、堂社の造営も盛んに行われ、二荒山満願寺と総称された。

   弘仁十年( 821)湯西川沢口薬師堂。この弘仁年間に沢口薬師堂前、沢口向原に
  建立名称共に不明の寺が一つ確実に存在し、さらに川戸平にも建立名称共に不明の
  寺が存在した。これら弘法大師ら二荒山(日光山)系列で、湯西川の二寺は後に日
  光山往古社領六拾六郷の衆徒三十六房の一つ十乗房になる。

   二荒山は保延年間(1135〜41)には日光山と呼ばれるようになる。日光山僧は源
  氏方の一大僧兵集団で、各地転戦出兵の御礼に文治二年(1186)源頼朝に領地を寄
  与されている。承元四年(1210)日光山は源実朝の護持僧弁覚法印が補任となり、
  熊野修験法を導入、三山形態の日光山領を確立。仁保元年(1240)弁覚、光明院を
  創設、一山の本坊とし、衆徒三十六坊、小坊舎三百、寺領およそ十八万石、日本で
  は比叡山に次いで2番目の大寺領となる。

   この時、日光山常行三昧堂新造大過去帳 日光山往古社領六拾六郷(輪王寺蔵/
  県史中世4)によれば湯西川郷寺領を衆徒三十六房の一つ十乗房としたとある。
  また、衆徒領三十七郷段銭日記(二荒山叢書)に「湯西川郷 六百拾八文」と見える

   室町時代、院々僧坊五百余坊とも伝えられ、日光山は関東一大霊場としてその名
  を誇り、日光修験や日光文化の全盛時代で、当地にも数多くの文化が入ってきた。

   永正元年正月(1504)上赤沢筋に、藤原高房を御祭神とし高房神社を分祀建立。

   永正八年(1511)乞食りゅうに五輪の塔供養塔を『権律師、碩恵、?修』。

   永正十一年(1514)下川戸平に、藤原高房を御祭神とし高房神社を分祀建立。

    大永三年(1523)宇都宮氏が日光山御神領惣政所となる。
    天文元年(1532)日光山は壬生氏と協力関係となり日光山御神領惣政所となる

   天文十八年三月(1549)現在の慈光寺境内に六地蔵逆修供養塔。
    『天文十八年巳酉季三月吉日、六地蔵奉為逆修善退也』の陰刻がある。
    六地蔵とは六面即ち六道の意味で、逆修とは生前の内に死後の自分達を供養す
   る、また、自分達より若くして亡くなった者(子や孫など)を供養するとの意味
   で、室町末期戦国時代に流行した供養塔であり特に九州地方に多い。戦に出兵す
   る自分、また疫病、戦死などで若くして亡くなった方々への供養塔である。さら
   に善退、善を退く也? 殺生を行う戦に出兵する僧兵達の供養塔ではないだろう
   か。近隣では、天文二年(1533)日向野尻 薬師堂前、永正一五年(1518)塩原
   温泉等、県内にも同型の物が多く存在する。
    あくまで推測だが、この六地蔵逆修供養塔も本来は沢口寺屋敷内に在り、慶長
   十二年の寺移転後、今の慈光寺内に移転して来たのではないだろうか、あくまで
   も推測だけど。

   弘治三年九月十二日(1557)高手三十三観音堂

   室町時代も後半、戦国期に入ると、旧会津西街道を主要道にして湯坂峠の向う側
  旧会津西街道を主要道に 三依、横川、塩原では会津軍勢(蘆名氏長沼家ら)と宇
  都宮成綱との間で争いが頻繁に起り始め、日光山とは言え湯西川郷も僧兵出兵、統
  治や侵略の戦火危機に在った。また、日光山領は宇都宮氏、壬生氏等が日光山御神
  領惣政所であった。

   天正五年(1577)田島城主、長沼盛秀は上三依に鶴ケ淵城を築き、関東の上杉勢
  に対抗すべく五十里村まで進出したが、この時湯西川の番対馬守は、米弐疋弐駄で
  湯西川郷を安堵したとある。この頃既に湯西川郷十乗房による統治力も長年による
  転戦出兵により弱まってきていた。

   天正十八年(1590)秀吉の小田原城攻めの際、日光山衆徒は壬生義雄と共にに出
  兵、北条氏に加担し秀吉の怒りをかい、門前屋敷と足尾郷を残し、すべての寺領を
  没収または焼討ちとなり。 領内外の僧徒は四散し、日光山は滅亡状態となる。
  数百年に及ぶ日光山往古社領統治がここに幕を閉じる。

   日光山湯西川郷の十乗房も没収焼討ちとなり断絶したとあり、地誌編輯材料取調
  書によると村の九ケ村の内四ケ村(湯西川村を含む)が一村悉く焼亡せりとあるが
  この事である。

   「往古都賀郡栗山村と称せり文禄年間(1592〜1596)故ありて分離す各一村の名
  称有し即ち今の九ヶ村なり、慶長年間(1596〜1615)塩谷郡に属せり尚詳細の事は
  中古出火の為に一村悉く焼亡せり、之を以て旧記書類等夫ヶ為め烏有に白反し故に
  詳細事を知るに由なし〜中略〜本村の湯西川村と称せしは元栗山村たりし時字上西
  川と称せり文禄年間分離するも温泉湧出するを以て湯西川村と称せし所以なり」
  と記録されている。

   慶長十二年八月(1607)当山五世円蓮社、鏡誉上人の時に沢口向の寺と川戸平の
  寺を、一寺として現在の処に移転したと慈光寺の記録にある。 この沢口向、川戸
  平の寺こそが日光山領寺湯西川十乗房である。 資料や昔話には沢口向の寺屋敷跡
  と出てくるのみで、建築物の損傷具合は不明だがこの時湯西川の中世の歴史資料古
  文書等殆ど全てが焼亡したと思われる。

   慶長十五年(1610)愛宕山神社 番久佐衛門の名が見える。

   その後湯西川も元和六年(1620)徳川幕府により日光神領、寛政元年(1789)
  日光奉行所支配となって行く。

   信長の寺領焼討ちは有名だが、秀吉も有名所では、熊野三社根来山を焼討ちにし
  ている。 後々の時代に怨恨を残さぬよう焼討ちの残忍残酷無情な殺戮の事実を隠
  ぺいまたは消去し、美化した英雄美談の歴史に塗り変えたのも現実である。




                                      孫


資料、
  仏照山湯覚院慈光寺


   現寺   慶長十二年八月(1607年)

   全改築  昭和三十年
  六地蔵逆修供養塔

   建立 天文十八年三月吉日(1549年)

『天文十八年巳酉季三月吉日、
    六地蔵奉為逆修善退也』の陰刻がある。

  六地蔵とは六面即ち六道の意味で、逆修とは生前の内に死
 後の自分達を供養する、また、自分達より若くして亡くなっ
 た者(子や孫など)を供養するとの意味で、室町末期戦国時
 代に流行した供養塔であり特に九州地方に多い。戦に出兵す
 る自分、また疫病、戦死などで若くして亡くなった方々への
 供養塔である。
  寺子屋教室の教本










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