山口久吉の話
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  湯西川温泉 高房神社 鎮守府将軍 藤原高房大明神



                               山 口 久 吉

     鎮守様と言えば、それは高房神社である。ご祭神は村の神社名簿によると藤原
    高房とある。 では高房とはどんな方であったらうか。それは藤原家の祖である
    右大臣大職官の、

      藤原鎌足 ― 不比等 ― 房前 ― 魚名 
                   ― 鷲取 ― 藤嗣 ― そして高房となる。

     藤原高房は位、四位下、越前の鎮守府将軍で没後正一位高房大明神(戒名) と
    なった。 かつてこの地域は藤原領であり、徳政を敷いた鎮守府将軍を鎮守様と
    して御祀り信仰していたことも一応は頷ける。

     栗山郷には湯西川筋に赤沢と川戸平、そして一つ石の三箇所に高房神社が祀ら
    れている。 鬼怒川筋には上栗山に藤原家の氏神春日神社が、そして西川にも祀
    られている。
     赤沢の高房神社には諏訪神社が合祀されており、御神像は木造一木造りで彩色
    が施してある。 この神社は古文書の記録によれば、足利時代の永正元年正月開
    とあり、境内の面積 一反九畝一歩、そして社の境内九歩、三間四方と記されて
    いる。
     川戸平の神社は永正拾壱歳開建とあり、現在の社は天保四年に再建したもので
    、龍の彫刻は一枚弐両壱歩、獅子の彫刻は一個弐分、前龍板は一枚一両、宮建前
    九両弐分、村方人足六百人、経費合計ニ十六両弐分とある。


     ★ご縁日、毎年、五月と八月の二回、鎮守祭りが次のように行われている。

     五月二十一日、旗揚げ、神事、氏子安全、五穀豊穣、の祈願祝宴。

     八月十九日、五月の祭りと同様であるが、当日は文挟流の獅子舞の奉納があ
     る。

     御祭日の決定、五月の鎮守祭りは部落総代会で(正月の初参会)毎年決定される
    。但し、八月のお祭りは二十日祭り(湯殿山神社大祭典)の次の日に行う事が慣例
    となっている。


     お祭りのあらまし

     鎮守祭りとして村人に親しまれて来たこのお祭りは、今尚現存する付き合い制
    度の「ワカイシグミ」がその行事一切を担当して行う事になっていた。

     旗揚げ、 氏子代表の家から持参して若者組であげる。

     神事、  氏子代表者がお供物を準備し、宮司(二宮神社宮司)部落総代長、氏
         子代表者、大世話人で神事を行う。

     奉納獅子、八月のお祭りには神事の後文挟流の獅子舞が奉納されます。


     ★氏子の人々の参詣と祝宴、

     村人達は敷物のゴザと、手造りの料理をキリダメや重箱に入れ境内に持参し、
    毎年決まった場所に座をとる。 但しその年に忌みのある家族は社前に座る事が
    出来ず、石段下の鳥居前に座を設ける。 (忌みのある人は鳥居を潜って神前に額
    ずく事が出来ない敬神の現れである。) 若者組みはゴザを社前に敷き、神官、部
    落総代長、氏子代表者、及び招待者の席を作る。 その下手へ続いて大世話人、
    中老、若衆の順に若者組みの座を設ける。 若者は朱塗りの木杯を各氏子の座に
    配布し、湯筒で酒を酌して廻る。そして村人達および若者達は手料理で祝宴を催
    す。この祝宴用のお酒は昔は会津から湯坂峠を越えて購入した (田島の京屋、中
    荒井、酒店から) この日の酒は決まりが、四斗 (一升瓶で四十本) 氏子代表者
    は頃合を見て、奉納のご神酒を下げて小若衆がこれを村人達に酌して廻る。
    ご神酒、ご神酒、という声と共に、これが廻るとお祭りはお開きとなり、村人達
    は散会して帰宅する。

     農耕儀礼から端を発したと云われ、このお祭りもご多分にもれず、春の収穫祈
    願と秋の豊作感謝祭、それがいまなお太古の昔から引き継がれ、今に続いている
    村人達の信仰の姿である。

     この社の境内には、昔から社木として松の大古木が立ち並び、昼直暗いの感が
    あったが、湯西川に電気をいれる為に、之を売却伐採して電線に変えてしまった
    ので、今は大木こそ少ないがイチイの木の茂るこんもりとした木立の中に、極彩
    色の彫刻の社殿と鳥居が目立ち、高房大明神の鳥居額が、村人の信仰を表徴する
    かの様にたっている。


    ★一つ石の、高房神社

     ここの鎮守様も湯川と同じ高房神社である。もとは湯西川の小字であったから
    信仰も同じであった。 湯西川湯殿山神社のお祭りの時も、お山の下に一つ石村
    の幟旗を立ててお祭りに参加していた。 ところが僕はこんな話を聞いたことが
    あった。

     時は明治三十五年、大暴風の時上流から一本の大欅が、強風で倒され川水の増
    水で流されて西川と湯西川の境界高土山の下で止まっていた。大欅と言えば貴重
    な材木である。 これを見つけた村人達は、その所有権を争ったが一つ石の人達
    は根元が西川の方に向いて止まっているから、これは西川の物だろうと云った。
    これを聞いた湯西川の人達は、かんかんに怒って、お前達西川に加担するなら明
    日から西川の村付き合をしろって訳で、湯西川から排除され、それから西川は小
    字になってしまった。 然し鎮守様は湯西川同様高房神社である、しかし湯殿山
    神社のお祭りに参加することが出来なくなり、一つ石の幟旗は近隣の仲内村の若
    者組に頼んで揚げてもらって、ご神酒とお供物は仲内村の世話人から貰っていっ
    て、村人が頂いていたそうであるが、時代が変わって一つ石の幟旗もお祭りから
    姿を消してしまった。だが鎮守様の信仰だけは今に続いている、高房神社の信仰
    は無くならない。
     このお話は事実であろうかどうか、真偽の程は解らない。

     奉献湯殿山、月山、羽黒山、氏子安全、五穀豊穣、一つ石村、 この幟旗は、
    どこへ姿を消してしまったのか、今は旗竿の後陰もない。 

     私は一つ石村の方の案内で高房神社を拝見した事がある、一つ石村の上方にそ
    の社が木立の中に現存している。 祠の中に次のような棟札があった。
         
           木花開耶姫命
     奉建立   人津医師命          宝暦八戌寅年
           高房大明神          安養寺現住  証海、
           敬淀姫之命

     又 明治十三年、高宮幣将源朝民範尊  六十五才、 との棟札もあり、

     神社のお祭りも続いているとの事であった。

     ダム建設で移転の続いている西川村、そして一つ石村、村人の安全を心から祈願
    して止まない心境である。

     湯西川の赤沢と川戸平の高房神社はともに、社殿の造りの優雅なことから栗山
    村の有形民族文化財に指定されています。








                          ふる里探訪 湯西川 23




 ◎ 資料、注釈。

     建立の時代背景は戦国時代初期。 当時の湯西川は往古日光山領(二荒山領)で
    (1520〜1540)年頃より藤原北家小山氏族の下総結城家が関ヶ原の戦い後の、慶長
    九年(1604)越前転封まで城主を努めていました。

     寛治元年(1087)前九年の役、後三年の役のの後、源八幡太郎義家が下野国に凱
    旋し、塩谷家を初め一族は県西南や群馬県方面迄領地拡大を進め、近隣では寛治年
    間(〜1093)頃から塩原家忠を三依、横川を含む五ヶ村の塩原地頭に任命していま
    す。また、『舘岩村史』『番屋峠』の件に、安倍貞任の家来 羽藤文治安方が男鹿
    山を中心に近隣の山々で山賊紛いな事をしていたと在り、近隣の山中に安倍家の血
    縁者が落延びた為の、撹乱作戦の様な行動をとったと考えられています。

     また『藤原町史』によれば、長沼五郎宗政は寛喜二年(1230)所領を嫡子時宗に
    譲っていて、その譲状に中に『陸奥国南山』の地名が記載されています。
    『陸奥国南山』とは会津田島地方の事です。

     戦国時代に入ると、文亀二年(1502)会津南山田島鴨山城主長沼氏は勢力を盛ん
    に塩原橘氏を陥落させ、翌年の文亀三年(1503)会津田島長沼氏と下野宇都宮氏の
    間で塩谷郡合戦が勃発。以後、五十里、中三依、上三依、芹沢、横川は、長沼領に
    なっています。会津西街道の三依地方は古来(1300年)頃より会津田島長沼氏と下
    野宇都宮氏の間で領権争いが行われていた土地でした。

     源八幡太郎義家が男鹿川から山を越えて旧湯西川領に領地拡大を行わなかったの
    は、すでに往古日光山領(二荒山領)は同族の源氏が統治していたからであり、湯
    西川沢口薬師堂の薬師瑠璃光如来は弘仁十年( 821年)弘法大師の作、と古文書の
    記録にあり、神聖な土地だったと考えられます。
     そして、会津南山田島鴨山城主長沼氏も同じく、男鹿川から山を越えて旧湯西川
    領に領地拡大を行わなかったのは、往古日光山領(二荒山領)は、同族下総結城家
    と多賀谷氏の菩提寺、さらに自分達長沼氏の菩提寺だったからではないのでしょう
    か。文亀三年(1503)以後、三依芹沢に長沼氏の支城、芹沢城が建てられたのです
    。後に鶴ヶ渕城(姥捨山城)に城を移動しました。ちなみに長沼氏も藤原北家小山
    氏族です。

     そんな時代背景の中、湯西川に高房神社(上社)は建立されました。古文書の記
    録には、『永正元年甲子年正月開』(1504年)とあり、さらに高房神社(下社)は
    『永正拾壱歳開建』(1514年)と棟柱に記載されており、これら高房神社の故郷旧
    下総結城領近隣には今も、時代変政の難を逃れた同建築物の高房神社が幾つか残っ
    てあります。

     御祭神は高房大明神『藤原高房』であると、国の神社名簿下野神社沿革史(明治
    36年1903刊)や、郡村の神社名簿にあり、また常陸国係杉山私記常陸国真壁郡郷土
    史(明治26年)にも高房大明神とは藤原高房の事である、と神名が記載されている
    また、主祭神は『武甕槌大神』『経律主大神』で、諏訪大明神も共に祭られている
     この諏訪大明神は信濃国、長野県の諏訪大社(諏訪神社)からの分祀で、これの
    主祭神は『建御名方神』『八坂刀売神』であり、諏訪大社の大祝を努めてきた諏訪
    氏は清和源氏の源満快の末裔であります。
     御神体共にほぼ同年代の物ではないかと考えられ、大きな年代の誤差無く往古日
    光山時代に祭られたのではないでしょうか。

     この湯西川の高房神社は往古日光山、下総結城氏、その家臣多賀谷氏、会津南山
    長沼氏らが関わって建立された神社です。藤原氏の軍神『藤原高房』をここ下野国
    境に祭る事が、藤原氏の末裔だらけの下野国に、この戦国時代どれ程効果的だった
    のだろうか。今も残る回向獅子の歌を元に考えれば、彼ら一族の菩提寺だったので
    あろう。

     ちなみに、この時代の湯西川のお寺は今の場所にはありませんでした。
    





 写真は赤沢(上社)高房神社


  高房神社(上社)永正元年正月開建 1504年
      (下社)永正拾壱歳開建  1514年
          天保四年 再建  1838年
      (西川)宝暦八戌寅年   1758年
塩谷郡の神社名簿  塩谷郡の神社名簿(コピー)
        年代(明治初期)

  高房神社 祭神 藤原高房 
            と書かれている

  下野神社沿革史(明治36年1903刊)
  常陸国係杉山私記 常陸国真壁郡郷土史
  (明治26年)にも神名が記載されいる。
藤原高房系図  鎮守様 藤原高房系図(コピー)

  高房 四位下越前守 
     鎮守府将軍正一 
     位高房大明神
           と書かれている。

  子、長時 孫、利仁も鎮守府将軍
            を歴任している?。
高房神社の神社古文書  高房神社の神社古文書
   開建建立 永正年の文字が見られる。


   室町末期戦国時代、結城領より分祀。 
  現在も旧結城領近隣には同建造物の高房神社が
  幾つか在り、経緯は藤原氏の蘆名長沼氏、宇都
  宮氏や壬生氏、との関係が深い。結城氏も全て
  藤原氏である。 
   当時、湯西川は往古日光山寺領十乗房であっ
  たと県史(日光山常行三昧堂新造大過去帳)等
  に、記録されている。
『現状調査資料』   これは、文化財の為、昭和の末頃〜平成
 初期に栗山中の遺跡神社仏閣等を、専門家
 が調査して調べた。 栗山村教育委員会出
  栗山村文化財の『現状調査資料原本のコ
 ピー』高房神社の項目。
  建築物や御神体等の、塗料、様式を古文
 書と照らし合わせ、正確な年式を調査した。
  おかげで現在は日光市の有形民俗文化財
 になっている。
高房大明神 藤原高房  これは、御神体 本尊 (赤沢)

    高房大明神 藤原高房
諏訪大明神   諏訪大明神(赤沢)


   (建御名方大神 八坂刀売神)
温泉神社より (赤沢)   温泉神社より (赤沢)

    湯泉大権現之神

     大己貴神(大国主神)、少彦名神



        
日光月光十二将軍?


         調査中
*尚、資料等当事者同士調査合意撮影の為、画像等著作権に基き、転載加工は禁止致します。

    高房神社(分祀)  祭神   藤原高房(高房大明神)
                   主祭神 武甕槌大神 経律主大神

              合祀祭  諏訪大明神(建御名方大神 八坂刀売神)


              合祀祭  温泉神社より 湯泉大権現之神?(調査中)
                     大己貴神(大国主神)少彦名神


                  書きかけ!




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