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湯西川温泉 高手三十三観音堂 山 口 久 吉 ★ 観音信仰とは、 観音信仰といえば、それは、西国三十三観音、坂東三十三観音、秩父三十四観 音、合わせてこれを百観音という。これらの観音様をお参りすることを霊場めぐ り、または札所巡りとも言う。これは古くから行われていた観音様の信仰である 栃木県にも下野三十三観音札所巡りがある。これは一番札所が日光の清滝町の 清滝寺で二番札所が四本竜寺、三番札所が観音寺、そして四番札所が今市の如来 寺となっている。 これらのお寺をお参りしお経を唱え又は写経を納め、納経帳 にお参りした日とお寺の名前を記載し、お寺の印を押してもらう札所巡りが盛ん な時代があつた。 しかしこれには長い月日と費用がかかったのである。 そこで、、、、、、 ★ 高手観音 当地では一ヶ所でこの三十三観音巡りが出来るようにと、この地に三十三体の 観音様をお祀りしたのだと推察されます。 此処の地名は、湯西川の高手と言う、大永年間の古文書には高出村との記録も ある。 御祀りした観音様は、釈迦牟尼如来や帝釈天王、弥勒菩薩、大梵天王、 普賢菩薩、観世音菩薩、など三十三体の観音様と薬師瑠璃光如来、虫歯地蔵尊な どであり、仏像は木造の彫刻体で立像及び坐像で台座つきで塗装がしてあるが、 何れも栗山村の村木であるイチイの木で作られた由緒あるものである。 氏子は高手と花輪の集落十三世帯、氏子の代表者は山口久吉(世襲制度)である ★ 由来 お堂に安置されている棟札に、弘治三年九月十二日(1557年)本惣戒師釈迦牟 尼如来三十三体観音細色大本願蔵助、とあり開基の年代をしめしております。 又、仏所は遠く九州筑前の国、冷泉、博多、津、の住僧、一傳、の花押があり 津の住僧、一傳、が筑前守夫婦を初め対馬守、越後守、出雲守、等多くの方々か ら仏身一体づつの御寄進を得て、仏師、国次がこれに当たり、地元信徒のご芳謝 により、三十三観音霊場巡りがこの地で崇拝出来るように安置したものと推察さ れます。 その後延宝七年彩色と形部の補修を行い、正徳三年お堂の改建を、元文三年に は、花和、沢口の女中念仏講より薬師観音を寄付されこれを安置しました。 ★ 安永のお堂建立 観音堂が永年の風雨に晒され老朽化に及んだので、安永七年にこれを修復しお 堂を拡張してお籠り堂として建立しました。 この時の氏子は二十一人で、世話 人が山口久四郎と伴嘉右衛門の二人で氏子は次の人達であった。 山口 七郎兵衛、 山口 五郎左衛門、 山口 弥左次、 山口 弥次兵衛 山口 久四郎、 山口 儀兵衛 山口 善四郎、 山口 庄右衛門 山口 又兵衛、 山口 五左衛門、 伴 利右衛門、 伴 万之助 伴 折右衛門、 伴 左左衛門、 伴 甚左衛門、 伴 嘉右衛門 伴 左兵治、 伴 政右衛門、 阿部 小左衛門、 阿部 八右衛門 山口 太右衛門、 この工事には各村々から多大の寄付金を頂いているが、湯端村の伴伊平次から青 銅五百文をはじめ七十七人から〆て、九貫四百六十四文を頂戴している。 又、工事に必要な材料も氏子の方々が姫小松、栗、欅、松、さわら、など出し 合って作った記録も残されている。 工事は五月二十六日から上栗山の藤兵衛大工及び五左衛門が参り、工事を進め 屋根葺きは六月二十七日から芹沢の市三郎、喜三郎、長右衛門の三人で本堂のグ シ祭りが七月二日で七月十七日入仏式が行われたと記されている。 この工事でお堂が拡張されお籠もり堂として、 現在のお堂となったのであります。 ★ 御祭日、 一月十六日、及び八月十六日(年二回) 御祭日には氏子代表が保管する幟旗三本をお堂前の旗竿に又、日の丸の旗をお 堂の入り口に掲揚する。 御祭日の行事、 一、女人百万遍念仏講、大数珠を回しながら鐘と太鼓をならし氏子安全、家 内安全、五穀豊穣を念仏を唱えながら祈願します。 二、お供物、オカラコ(お米を石臼で粉に挽き水で練り固めたもので火を通 さないもの)を三十三体の観音様にそれぞれお供えします。 三、獅子舞の奉納、八月十六日の御祭日は、若者達による文挟流の獅子舞が 奉納されます。 四、お籠もり、特別な願いのある人や厄年の厄払いの人は祈願のためお堂内 にお籠もりして一晩中その祈願を行ったものです。 ★ 仏像の盗難 昭和五十年四月、三十五体の仏像が盗難に会いましたが、県警が二万枚の捜査 チラシを全国に配布した為、警視庁により発覚し七月に盗品を全部引き取ること が出来ました。 こうした事件もありました。 ★ 悲恋の情死 天保十年、封建時代の家族制度で跡取り同士の男女、お品と加助がこの観音堂 に参り、この世で添えぬ恋仲を、来世は二世も三世もと観音様に最後のお祈りを 捧げ、親に先立つ不孝の罪を許し給えと、お堂の中で悲恋の心中を遂げましたが 観音様はさぞかし二人を天国に導き、極楽浄土で添わせたことと推察されます。 …・合掌、二人の遺体はそれぞれ親元に引き取られたが、その夜から二人の魂 は火の玉となって小沢を飛び交ったと言う。そこで長老の提案で、二人を一緒に 葬ったところ火の玉はプッツリ無くなったと言う。その石碑がお堂の前に祀られ ているが、慈光寺の智海和尚が付けたと言う二人の戒名が又変わっている。 この事件を当時の村人達は、クドキ節にして口ずさんでいたと言う。それを書 き残した文書と二人の年老いた母親から、名主村役人に出された願書も残されて いる。 参照→お品加助悲恋の情死 この観音様は開基以来御祭事を欠かすことなく、その信仰いよいよ厚く現在に 至ったものであります。 昭和五十一年十二月二十四日、栗山村有形民族文化財に指定されています。 ふる里探訪 湯西川 22 資料、
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