湯西川温泉の事件簿B  お品加助心中事件



                               山 口 久 吉

  お品加助心中クドキ、古書の中から一冊の古文書が出てきた、見ると、

  ★香梅比翼抜、天保亥春、日向むら、平左、再筆、 此主  清七、とある。

   これは天保十年封建時代の跡取り同士、お品と加助の二人はこの世で添えぬ恋
  仲を、来世は二世も三世もと観音様に最後のお祈りを捧げ親に先立つ不幸の罪を
  許し給えと、お堂の中で悲恋の心中を遂げましたが、その一部始終を詳しく書い
  たこの『クドキ節』は当時村人達に口ずまれていたもので、日向むら、の平左が
  書いた変体かな混じりの読みずらい書体で書いてあり、これを解読すると次の様
  になる。

  一、色と恋は思案の外よ今度あわれな心中がご座る、国は下野塩谷の郡日光御領
   に湯西といふて、およそ家数が百軒余り郷の村数五ヶ村成るが、小名を申せば
   高手の村に後家の百姓にお直といふて、壱人娘にお品といふて年は弐十四きり
   やうな者よ心身姿は柳に緑、百姓仕事は鍬かま迄もはたやぬい針糸取るわざも
   在郷女にや珍らし者よ、村をへたてて沢口村に是も同じく後家百姓に年は四十
   余りておたつといふて養子むすこに加助といふて年は二十弐で男の盛り、きり
   やうはつめへ緒人にすぐれ、ことや三味線ごしゆうき迄も男一げい算筆上手、
   そこでお品は心を掛けてわしも女に生まれた身なりやあのや男とふうふとなり
   て一生此の世でそうるならばほかの男にや心は掛けぬ、夜の目あわさでわしや
   針仕事可程わたしが心を掛けてゆめになりともしれそな物よわしが念力岩ても
   とふす、神のめぐみか仏のめぐみ戌のしわすの八日の夕にお品ゆめ見の宜敷事
   は、可愛加助とふうふと成て二人枕でねた夜のゆめは明けのからすではやめが
   さめて、朝に早起き思案をいたし、けふは日もよし天気もよいし朝な夕なの神
   信心も一つ身の為あのしゆの為と直ぐにお品はしたくをいたし、入湯ながらに
   参詣に行は花輪高手のくわんおんさまへ、とふるみちなりや参詣いたし小沢越
   えれば花輪の村よ其のやつづきに沢口村よ、前に立たるお薬師さまへ一生けん
   めいの心願かけて直ぐにお品は湯元へ行は、まえるみちなりや鎮守へ参りむす
   ぶえんかや加助も参詣、そこで二人が同道致し入湯遊びてきめたる事か湯いも
   はいらつたがへのむねをあらいながせし二人の中よ、お品加助はふしぎなえん
   でかたへ約束石上村よ、寺の下成る岩の湯そばの胸の行湯を御所湯てきめて返
   る二人が藤倉思へ、かよいかよいがたび重なりて浅黄染めても紺花かせよ、一
   夜二夜か染分形よ数多人目を白菊染めよ、人の意見もいいけししぼり深いたか
   へになるみのしぼり、浮名立嶋吉原こうし早くふうふと成田やこうし、親はい
   けんを結城の嶋ょ聞けばたがへに柳のしぼり、てふてふうふになして晒したよ
   長イ月日をたのしみまァしよぞ ヤンレイ、


  二、頃は天保十年なるが戌の正月下旬の頃に、二十四日は常念仏でおよそ五ヶ村
   よりあつまりて寺は浄土で慈光寺さまよ、今年ほうねん上人さまのえこふ念仏
   皆人々が我もわれもとねんぶつ申す、信生功徳を願いし中にお品加助はこんた
   ん話し、加助言葉に申する事に聞けばそなたはむことる話し先の男は十人すぐ
   れむこをとるなら中人しやうか、たいてねしやんせ手枕さして一つはたにてた
   のしまさんせ、夜事よごとにわたしが噂それがてい女か女房掛ヶかわたしや一
   人でうらみてねましよ、そこでお品は返しの言葉人の口には戸が立てられぬき
   けばおまえも嫁取る噂祝儀ちかぢか結納までも主がしゆうじできめたぢやない
   か親のおきては是非ない物よわしがきめたはうわべぢやないよかたい石上くつ
   るるとても秋の月とはいはせはせんとそこで加助も其の利につまり、わしもそ
   ふとは思案はすれどとふて此の世てそはれはせまへ、心中しましよかかけをち
   しやうかとふて一度はしなねばならぬ、さらばこれから心中せんと死出の旅路
   の酒盛りせんと寺の近所の酒やへ行て二人しのんで相盃よ、さしつさされつ呑
   酒こそはしんで未来はふうふの定メ、色と恋とわつもりの酒を呑んでしまへば
   早明からすかわへかわへとなくこえきけば西よ東よ北南よとかわへかわへと早
   つけ渡る ヤンレイ、


  三、今度サエ我等がさいこの場所は、花輪高手のくわんおんさまへ夜の五つを出
   会いに定メ、氏へ帰りて人目をしのび、思いおもへの支度を致しそこでお品が
   しにしょうぞくは、下に手織りのつむぎの小袖、三つ重ねて白むくめして、帯
   ははやりの黒小折よ、三重にまわししっかとむすび、顔に薄ス化粧口べにさし
   て、髪は此の世をわかれのろこし、当世はやりのくしかんざしよ、さらし手拭
   白足袋はへて、そこで加助がしにしゃうぞくは、結城つむぎや八丈嶋よ上に白
   むくりんづの小袖、帯ははやりの羅背板しめてまえでむすんで上帯しめて、ら
   しゃの羽織にさらしの足袋よ銘は村政こしひら作り、二尺三寸落としてさして
   最早五ツの刻限なれば、高手花輪のくわんのんさまへお品加助は二人でしのぶ
   、場所に至れば二人の者は堂のうちへと座を取りすわり、西へ向ひて母上さま
   よ親に先立つ不孝の者よゆるしたまへと両手を合わせ、大悲大悲くわんおんさ
   まや地蔵菩薩や道引きたまへ、あおにかへりて合掌いたしお品かくごはいかが
   でご座る、もはやかくごはよろしうござるさアさ主さんころしてたべよ、そこ
   で加助もなみだとともに弐尺三寸すらりとぬいて、花のお品を只一突きに直ぐ
   にしがへにこしうちかけてかへす刀で腹かき切ってあわれなるかな無常のけむ
   り、しんだ姿を見る人々もきれた手ぎわは武士にもまさるほめぬ者こそ、あら
   なかりける、ヤンレイ  ソレ。



  尚、お品と加助の年老いたそれぞれの母親から名主村役人へ宛てた次のような願
   書も残されている、之はお品の母親からの願書で、加助の母親からの願書は省
   略する。


    差上申一札之事

   此度高手村、なを、娘しな義沢口村たつ倅嘉助前々より密通に有之候哉当正月
  二十五日の夜高手村堂の前にて心中死去いたし候由に有之御村役人様え右の趣申
  上候所早速 日光御奉行所様え御検死御願之旨被仰渡当人組合親類迄テ一同当惑
  いたし右之儀内談いたし候処御検死にも相成候而は当人は勿論組合親類共難渋之
  百姓に有之候へば既に断絶にも可相成義と歎敷申上候得は御聞済に相成り乍恐内
  済に相成り候上は当人組合親類迄右一件に付惣方共己後寸志故障之義毛頭無御座
  候万一脇方より違乱申者無御座候向後御上様より御咎有之候共私共何方迄も罷出
  急度申訳ヶ可仕候為後日一札差上申所拠如件、
                        高手村  当人   な を、
                             組合総代 利平次
                             親類総代 長平衛
                             組 頭 弥右衛門
                             年 寄 嘉左衛門
      天保十年亥正月弐拾八日
                   名主  久左衛門様
                   村   役人衆中様





                      ふる里探訪 湯西川 22の続き




資料、
  クドキ節   
  心中の碑(お品加助の墓












































































































































































































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