山口久吉の話
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湯西川温泉 川戸平の 釜八幡神社 と ネズコ大木



                               山 口 久 吉

  ネズコの大木

   栗山村指定、天然記念物、昭和五十一年十二月二十四日、指定、
   所 在、日光市湯西川 字川戸、  氏神境内、(阿部源一郎)
   名 称、ネズコの大木、
   大きさ、目通り六・三八メートル、 根まわり七・六五メートル、 
   樹齢六百年(推定) 枝張り東西二十二メートル、南北二十メートル、
             樹高二十五メートル、
             一名クロビと呼ばれる村内では珍しい大木である。
   樹名 ネズコ、(クロべ、クロビ、ゴロウヒバ、ヒメアスナロ、等とも云う、
      常緑喬木で葉は鱗状交互に対生し、大きさはヒバとヒノキの中間、湯西
     川では標高八百メートル以上の高山地帯の岩場に比較的多く自生している
     心材が帯黒色で材が軽く軟らかで、戸、障子、天井板、曲げ物、家具、指
     物等に利用されてきた、温帯本州北中部に自生する。


  一、 村人の生活とネズコ

   湯西川では大昔からクロビと呼びこの木の利用によって、村人達に数々の生活
  文化が生まれた材質が軟らかく軽く、よく割れるところからその利用方法も数多
  い、
    (ア) 戸、障子、などの建具、天井板、
    (イ) 曲げ物、お鉢や弁当箱(メンパ、横メンパ) ヒシャク、オケ、など、
    (ウ) 柄もの、キネの柄、雪べラの柄など、
    (エ) 箱板、杓子の道具箱など、
    (オ) 杖、お年寄りの杖や杓子作りのときなどの荷物の背負い時の杖など、
    (カ) 境界標柱、官地民地の境の標柱として耐久性があるところから営林署
      などで多く利用した。
    (キ) シッテギ棒、細く割って便所で使った、紙の少なかった時代にトイレ
      ットぺーパーかわりに使用された。使用済みのものは箱に入れまとまっ
      た時、藪地等に捨てられた。


  二、 木杓子作りとネズコ

   江戸時代中期から湯西川で生業として行われた、木杓子作りにはネズコの木は
  不可欠のものであった。山小屋を作る時はまずネズコの木のある所を選ぶのも第
  一の要件であり次のように用いられた。
     (ア) 屋根板は「板ッカアラ」とよばれネズコの木を板目に細く割って板
       として屋根を葺いた、又、羽目板、棚板、もこれを利用した、ネズコ
       の木のない山で杓子小屋を作る時は、今まで使用していた物を纏めて
       背負い運んで利用した。次の山小屋が比較的近い所のときも同様であ
       った。
     (イ) 砥石で刃物類を研ぐときの水を入れる砥舟や、砥石おさい棒、其の
       他の台などもネズコの木を利用した。

   前記の様にクロビと呼んでその利用方法は広範囲に亘って当時はなくてならな
  い貴重な存在の木であった。


  三、 其の他

   クロべ(クロビ)に対してシラべ(シラビ)がある、これはシラビソ、リウセン、
  アオビ、トラノオモミ、とも云う。



  釜八幡神社、(釜神八幡とその伝説)

   所 在、 日光市湯西川大字川戸、
   氏 子、 川戸部落の上坪、
   氏子代表、阿久津忠一、
   祭 神、 釜神八幡、
    口径一尺三寸、深さ八寸、 底径一尺一寸、
    平底の取手が内側についている異型の鋳造(内耳型)鉄釜である。

   祭 日、毎月十五日に氏子が集まりお神酒祭りを行っている。
    
    註、 釜は取手が内側に付いており、焚き火をしても取手の藤つるが燃えな
      いように出来ており、この野戦釜とも言うべき形の釜は木箱に納め祠の
      下側に祀られている。又この祠のお宮に木彫り十六弁の菊の紋章が付い
      ている。尚、この釜八幡に因む次の様な伝説がある。

   伝 説、昔、八幡太郎義家は奥州の安倍の貞任、宗任を征伐しその残党を追っ
    て会津西街道を下って来た。下野の国に入り鶏頂山の麓に差し掛かると、八
    幡太郎義家は何思ったか突如山頂めがけて駆け上った。驚く家来達を尻目に
    小手をかざしてヂーッと日の没する西の山並みをにらんでいた。西の山並み
    には雲か霞かたなびき何か人の住む気配があった。八幡太郎はもし人の住む
    里があるならば鶏を飼っている事間違いなしと家来に命じ、一番鶏の鳴く夜
    明けに鶏の背を割り尾に松明を結び目印として、これを放った鶏はたけり狂
    い一番鶏の鳴く西の方角を目指して飛び去った。八幡太郎はこれを見て、こ
    れまさしく西の山奥に人の住む里あり、人の住む里あらば安倍の落ち武者隠
    れおること間違いなしと、山を下りて様子如何にと物見に寄ったり、(故に
    この地を見に寄ったので身寄りと呼ぶ)横から流れてくる川を渡り(この地
    の奥を横川と呼ぶ)西から流れ来る川の奥地へと攻め進んだ、(今の芹沢か
    ら峠道を進んだものと思われる。)西の奥の山里では川戸平に落ち着いた安
    倍の落人達は折柄男の子の誕生を祝い持ちおる端布で作った幟旗を立てて心
    ばかりの祝宴をしていた夜明けに一番鶏の鳴き声と幟旗で居所を突き止めら
    れ、八幡太郎の奇襲を受けて戦うすべもなく降参した。そして再び武士とな
    らず農をもって子孫を守りこの地に安住する。事を誓ったのである。この時
    有り合せの雑穀を集めて飯を炊き八幡太郎に献上した。この時の釜を後に平
    和の守り神として祭祀したという、この氏神は釜を祀ることから釜八幡宮と
    呼び子孫の繁栄を祈願して永く今日まで信仰しているという。

    栗山村の文化財 現状調査資料 栗山村文化財保護審議会 釜八幡伝説 

   (註)  一、雲か霞かたなびくごどく見えたのは臼の平の焼畑の煙か、又は会
         津西街道が目に見える所なので見張り番に出ていた者の焚き火の
         煙であったろう。
       二、身寄り、の地名は大日本道中記にも記されている、後で今の三依
         となったのであろう。
       三、横から流れる川は、その奥の里を横川と呼び、西から流れる川は
         西川で、何れも会津西街道の主街道から見ての方角に因んでの呼
         び名で、西川上流の里はお湯がある事から後で湯の字をつけて湯
         西川となったと言う。
       四、この伝説の故か、川戸地区には安倍の姓が多い、湯殿山講中代参
         帳の古文書にも安倍、安部、阿倍、の姓の記録が見える。
         伝承によると落人のいわれを嫌い次第に今の阿部の姓に改めたと
         も言う。
       五、八幡太郎の奇襲を受けたのが五月五日の節句の日だったので、当
         地ではこの日に節句の祝えをしないで、一日遅れの五月六日に節
         句の祝えをやっている。
         又、鯉幟りも立てないし、鶏も飼わない、卵も昔は食べなかった
         と云う。

   この伝説は、事実らしくもある、何とならば、湯殿山講中代参帳の姓の記録で
  ある、この姓は釜神八幡を氏神とする川戸集落だけで外にはない、古文書は歴史
  の証人である、とするならば、事実ではないだらうか、此処の集落の村人達の言
  葉、特に方言は奥州の安倍一族とは無関係では無いかもしれない。
   歌舞伎芝居を興行する時に奥州安達が原の段、をやると安倍一族の涙雨が降る
  と云う、釜を氏神として信仰を守り続ける川戸平集落、伝説と共に、湯殿山講中
  代参帳に安倍の姓の記載の多い事も事実である。





                         ふる里探訪 湯西川 33
                         ふる里探訪 湯西川 34



                   追

    寛治元年(1087)前九年の役、後三年の役 勝利の後、源八幡太郎義家が下野
   の国凱旋し領地拡大を進める。塩谷家を初め一族は県西南や群馬県方面迄拡大、
   後の塩原氏、田島長沼氏、塩谷氏、宇都宮氏、小山氏、結城氏、他下野国系の殆
   どが源氏の入混じった家系図を作り出す。
    近隣では、寛治年間(〜1093)源八幡太郎義家は、塩原家忠を三依、横川を含
   む五ヶ村の塩原地頭に任命しているが、義家は、二荒山領内には兵を進めていな
   い。これは二荒山は古来より源氏の信仰の地であり親族同族の為である。
    舘岩村史に、安倍貞任の家来 羽藤文治安方が男鹿山を中心に、近隣の山々で
   山賊紛いな事をしていたと在り、おそらく、男鹿川周辺近隣の山中に安倍家の血
   縁者が落延びた為の、撹乱作戦の様な行動をとったと考えられる。

    延暦、弘仁年間の当地民移住後。日陰村の自在寺 弘仁三年三月八日( 812)
   再建、上栗山の長研寺 弘仁三年十一月十八日再建、弘仁十年( 821)湯西川沢
   口薬師堂。この弘仁年間に沢口薬師堂前、沢口向原に建立名称共に不明の寺が一
   つ確実に存在し、さらに川戸平にも建立名称共に不明の寺が存在した。これら弘
   法大師ら二荒山系列で湯西川の二寺は、後に日光山往古社領六拾六郷の衆徒三十
   六房の一つ十乗房になる。

    そんな湯西川の時代背景の中、寛治元年(1087)前九年の役、後三年の役のそ
   の後、落延びた安倍一行は、残党狩りの経緯により二荒山湯西川寺領に一時匿わ
   れた、この一行は安倍貞任の近親者で湯西川寺領主内に入れたのは血縁者のみで
   あり、ほとんどが女性子供と敬老だったと思われ、二荒山座主または湯西川寺領
   主との何等かの親交が在った者達と考えられる。

    源氏側は、男鹿川周辺近隣の山中に安倍家の血縁者が落延びた情報により残党
   狩りを強化、安倍貞任の家来 羽藤文治安方が近隣の山々で撹乱作戦の様な行動
   をとったと考えられる。

    二荒山湯西川寺領に残党ありと知った源八幡太郎義家は現状調査資料の八幡太
   郎伝説の様な奇襲はせず、源氏の信仰の親族同族地である為慎重に行動した。
    義家側は二荒山側に真意を確かめ、両者の間で交渉、契約が交わされ指示によ
   り、安倍氏側から意思表示として、戦の命兵糧用の鍋であるこの野戦釜を八幡釜
   と称し、川戸の釜八幡神社に奉納した。
    歴史書などには、源八幡太郎義家は開拓者であり時折情けの人であったと書か
   れている。

    この事の年代は不詳だが、推定では寛治元年(1087)の凱旋後から寛治7年(
   1093)塩原家忠地頭任命の間であり。古文書等、資料を照らし合せると、現在も
   子孫達がここ湯西川で活躍をしている。

    源八幡太郎義家は、隣の塩原温泉郷の塩原八幡宮や逆杉などに見られ、『幕岩
   村正八幡宮略縁起』『舘岩村誌 番屋峠』等に在り、彼ほどの者が近隣の道筋や
   土地を知らないはずがなく。また、源八幡太郎義家の子義国や孫義重、義康らは
   下野上野の国の一部(栃木足利、群馬新田)を開拓している。 塩谷氏は子孫。

    ただ、これは当時二荒山寺領だった場合の話で、舘岩村史の羽藤文治安方の話
   は伝承でウドウ沢が残るのみ、今の所あるだけの資料を見る限り八割型史実に近
   いと確信、また別の所から資料が出て来る可能性が有るので、今の所調査中とい
   う事にする。あと、この祠のお宮に木彫り十六弁の菊の紋章については後ほど書
   くことにする。
    また、古くから語られる、この釜八幡伝説は、当地にもう一つ在る落人伝説の
   モデルになっていると思われ、話の内容がよく似てる。


                   付録

    その後の二荒山は保延年間(1135〜41)には日光山と呼ばれるようになり、日
   光山僧は源氏方の一大僧兵集団で、各地転戦出兵の御礼に文治二年(1186)頼朝
   に領地を寄与されている。承元四年(1210)日光山は源実朝の護持僧弁覚法印が
   補任となり、熊野修験法を導入、三山形態の日光山領を確立。仁保元年(1240)
   弁覚、光明院を創設、一山の本坊とし、衆徒三十六坊、小坊舎三百、寺領およそ
   十八万石、日本では比叡山に次いで2番目の大寺領となる。 この時、日光山常
   行三昧堂新造大過去帳 日光山往古社領六拾六郷(輪王寺蔵/県史中世4)によれば
   湯西川郷寺領を衆徒三十六房の一つ十乗房としたとある。また、衆徒領三十七郷
   段銭日記(二荒山叢書)に「湯西川郷 六百拾八文」と見える。しかし数百年続い
   た日光山往古社領も天正十八年(1590)秀吉の小田原城攻めの際、日光山衆徒は
   壬生義雄と共にに出兵、北条氏に加担し秀吉の怒りをかい、門前屋敷と足尾郷を
   残し、すべての寺領を没収または焼討ちとなり。領内外の僧徒は四散し、日光山
   は滅亡状態となる。

    日光山湯西川郷の十乗房も没収焼討ちとなり断絶したとあり、地誌編輯材料取
   調書によると村の九ケ村の内四ケ村(湯西川村を含む)が一村悉く焼亡せりとあ
   るが、この事であろう。慶長十二年八月(1607)当山五世円蓮社、鏡誉上人の時
   に沢口向の寺と川戸平の寺を、一寺として現在の処に移転したと慈光寺の記録に
   ある。この沢口向、川戸平の寺こそが日光山領寺湯西川十乗房である。資料や昔
   話には沢口向の寺屋敷跡と出てくるのみで、建築物の損傷具合は不明だがこの時
   湯西川の中世の歴史資料古文書等殆ど全てが焼亡したと思われる。

   「往古都賀郡栗山村と称せり文禄年間(1592〜1596)故ありて分離す各一村の名
   称有し即ち今の九ヶ村なり、慶長年間(1596〜1615)塩谷郡に属せり尚詳細の事
   は中古出火の為に一村悉く焼亡せり、之を以て旧記書類等夫ヶ為め烏有に白反し
   故に詳細事を知るに由なし〜中略〜本村の湯西川村と称せしは元栗山村たりし時
   字上西川と称せり文禄年間分離するも温泉湧出するを以て湯西川村と称せし所以
   なり」と記録されている。
   
    その後湯西川も元和六年(1620)徳川幕府により日光神領、寛政元年(1789)
   日光奉行所支配となって行く。
    ちなみに、信長の寺領焼討ちは有名だが、秀吉も有名所では、熊野三社根来山
   を焼討ちにしている。後々の時代に怨恨を残さぬよう焼討ちの残忍残酷無情な殺
   戮の事実を隠ぺいまたは消去し、美化した英雄美談の歴史に塗り変えたのも現実
   である。



                                    孫



資料、
  神社の全景
  祀られている釜
  湯殿山講中代参帳
   
  湯殿山講中代参帳 


  この中に安倍、安部、阿倍、
         の姓が見える










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