歴史物マニアックス
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   釜八幡伝説





    昔、八幡太郎義家(源義家)は、奥州の安倍の貞任、宗任を征伐し、その残党を追って
   はるばると会津西街道を下って来たが、下野の国に入ると男鹿岳の戦以来、残党の消息は
   遥として分からなくなってしまった。 深索につかれた八幡太郎は、鶏頂山の麓にさしか
   かると、何を思ったか突然、山頂めがけて駆け登った。 おどろく家来たちを尻目に、小
   手をかざして、ぢーっと日の没する西の山なみをにらんでいたと云う。 西の山なみには
   雲か霞がたなびき、何か人の住む気配があったのである。

    八幡太郎は、若し西の山あいに人の住む里あるならば、おそらく鶏も飼っているだろう
   と考え、一計を案じたのであった。 家来に命じ、一番鶏の鳴く夜明けに鶏の背わ割り、
   尾に松明の火を結びつけ目印として、これを放ったのである。 鶏はたけり狂い一番鶏の
   鳴く西の方角目指して、飛び去ったのである。 
    八幡太郎はこれを見て、
    「 これはまさしく西の山奥に人住む里あり。
            人の住む里あらば、安倍の落武者かくれる事間違いなし。 」 と、
   山を下り様子何処にと、見に寄ったのである。 故にこの地を見に寄ったので、見寄りと
   呼んだと云う。 後に今の三衣に改められたと云うことです。

    八幡太郎は、山頂から見て 横から流れてくる川を、横川と呼び。西から流れてくる川
   を西川と地名付けて呼んで、残党狩りの作戦を練ったとも云う。 西川の奥に人の里あり
   と察知したので、これを征伐すべく兵を進めたのであった。

    川沿いに上流へ進む一行は、天狗岩などの難所に。 又見寄り芹沢からの一行は、峠の
   難所に悩まされたとも云う。

    一方、奥の山里では川戸平に落ちのびた、安倍の落人たちは、会津西街道の良く見える
   臼の平らに見張りの番兵を出していたが、春の播付けのための焼畑の煙がたなびき、これ
   が反対側の鶏頂山から、八幡太郎に見つけられたと云われている。

    又、一族に男の子が誕生したので、五月五日節句のこの日に有り合わせの端布で、のぼ
   り旗を作りこれを立てて、心ばかりの祝宴をあげていたのであったが、その翌朝一番鶏が
   夜明けを告げたので、その声とのぼり旗で居場所を見つけられ、八幡太郎の奇襲を受けて
   戦うすべもなく降参したと云う。

    そして再び武士とならず、農を以って子孫を守りこの地に永住する事を誓ったと云う。
   このとき有り合わせの雑穀を集めて、飯を炊き八幡太郎に献上したということです。 後
   にこの時の釜を、一種の守り神、氏神様として祭祀した釜を祀る事から、釜八幡宮と呼び
   永く信仰している。 又この地には安倍の姓が多くあったが、落人を嫌って次第に今の、
   阿部の字に改めたとも云う事です。 

    五月五日に奇襲を受けた日なので、節句の祝いを一日遅れの六日に行うようになり。又
   のぼり旗も立てないし、鶏の鳴き声で隠れ所を突き止められた事から、鶏も飼わず、昔は
   卵も食べなかったと言う事です。



  口径一尺三寸 深さ八寸 低径一尺一寸

  平底の取手が内側に付いている、
          異型の鋳造鉄鍋である。


 註釈 /  釜は取っ手が内側に付いており、
   藤蔓で焚火しても燃えないように出来てお
   り、この野戦鍋とも言うべき異型の鍋は、
   全国でも珍しく貴重な文化財でもある。




  参考資料



   
源義家

    ● 源頼義の長男で、八幡太郎と称します。
    ● 前九年の役で父に従い、その功績により康平6年(1063年)出羽守に任じられ
     ました。
    ● 永保3年(1083年)陸奥守・鎮守府将軍。
    ● 後三年の役に介入し、清原(藤原)清衡を援助して鎮圧しました。
     朝廷はこれを私闘として行賞を認めなかったため、私財を将士に提供しました。
     このことで武家の棟梁としての名声が逆に高まり、東国武士団との主従結合は強化さ
     れました。
    ● 承徳2年(1098年)正四位下に叙され、院昇殿を許されましたが、晩年は嫡子
     義親が追討されるな  ど、朝廷内で苦しい立場におかれました。


   安倍貞任

    ● 安倍頼時の次男。
    ● 永承六年(1051年)からの前九年の役では、父頼時に従って活躍、厨川柵を守
     備した。
    ● 天喜五年(1057年)頼時没後は当主となり、源頼義・義家の国府側との激しい
     戦闘を続けた。
    ● 康平五年(1062年)出羽清原氏が源氏方の招きに応じて挙兵したため、一気に
     戦況が不利となり、義弟藤原経清らとともに抵抗するが、厨川柵で討死した。





  参考文献

     栗山村の文化財 現状調査資料 
         発行 平成4年3月31日 栗山村文化財保護審議会 
                                     より











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