|
詳しくは、民宿やま久 までご連絡ください。 0288−98−0902 |
釜八幡伝説 昔、八幡太郎義家(源義家)は、奥州の安倍の貞任、宗任を征伐し、その残党を追って はるばると会津西街道を下って来たが、下野の国に入ると男鹿岳の戦以来、残党の消息は 遥として分からなくなってしまった。 深索につかれた八幡太郎は、鶏頂山の麓にさしか かると、何を思ったか突然、山頂めがけて駆け登った。 おどろく家来たちを尻目に、小 手をかざして、ぢーっと日の没する西の山なみをにらんでいたと云う。 西の山なみには 雲か霞がたなびき、何か人の住む気配があったのである。 八幡太郎は、若し西の山あいに人の住む里あるならば、おそらく鶏も飼っているだろう と考え、一計を案じたのであった。 家来に命じ、一番鶏の鳴く夜明けに鶏の背わ割り、 尾に松明の火を結びつけ目印として、これを放ったのである。 鶏はたけり狂い一番鶏の 鳴く西の方角目指して、飛び去ったのである。 八幡太郎はこれを見て、 「 これはまさしく西の山奥に人住む里あり。 人の住む里あらば、安倍の落武者かくれる事間違いなし。 」 と、 山を下り様子何処にと、見に寄ったのである。 故にこの地を見に寄ったので、見寄りと 呼んだと云う。 後に今の三衣に改められたと云うことです。 八幡太郎は、山頂から見て 横から流れてくる川を、横川と呼び。西から流れてくる川 を西川と地名付けて呼んで、残党狩りの作戦を練ったとも云う。 西川の奥に人の里あり と察知したので、これを征伐すべく兵を進めたのであった。 川沿いに上流へ進む一行は、天狗岩などの難所に。 又見寄り芹沢からの一行は、峠の 難所に悩まされたとも云う。 一方、奥の山里では川戸平に落ちのびた、安倍の落人たちは、会津西街道の良く見える 臼の平らに見張りの番兵を出していたが、春の播付けのための焼畑の煙がたなびき、これ が反対側の鶏頂山から、八幡太郎に見つけられたと云われている。 又、一族に男の子が誕生したので、五月五日節句のこの日に有り合わせの端布で、のぼ り旗を作りこれを立てて、心ばかりの祝宴をあげていたのであったが、その翌朝一番鶏が 夜明けを告げたので、その声とのぼり旗で居場所を見つけられ、八幡太郎の奇襲を受けて 戦うすべもなく降参したと云う。 そして再び武士とならず、農を以って子孫を守りこの地に永住する事を誓ったと云う。 このとき有り合わせの雑穀を集めて、飯を炊き八幡太郎に献上したということです。 後 にこの時の釜を、一種の守り神、氏神様として祭祀した釜を祀る事から、釜八幡宮と呼び 永く信仰している。 又この地には安倍の姓が多くあったが、落人を嫌って次第に今の、 阿部の字に改めたとも云う事です。 五月五日に奇襲を受けた日なので、節句の祝いを一日遅れの六日に行うようになり。又 のぼり旗も立てないし、鶏の鳴き声で隠れ所を突き止められた事から、鶏も飼わず、昔は 卵も食べなかったと言う事です。
参考資料 源義家 ● 源頼義の長男で、八幡太郎と称します。 ● 前九年の役で父に従い、その功績により康平6年(1063年)出羽守に任じられ ました。 ● 永保3年(1083年)陸奥守・鎮守府将軍。 ● 後三年の役に介入し、清原(藤原)清衡を援助して鎮圧しました。 朝廷はこれを私闘として行賞を認めなかったため、私財を将士に提供しました。 このことで武家の棟梁としての名声が逆に高まり、東国武士団との主従結合は強化さ れました。 ● 承徳2年(1098年)正四位下に叙され、院昇殿を許されましたが、晩年は嫡子 義親が追討されるな ど、朝廷内で苦しい立場におかれました。 安倍貞任 ● 安倍頼時の次男。 ● 永承六年(1051年)からの前九年の役では、父頼時に従って活躍、厨川柵を守 備した。 ● 天喜五年(1057年)頼時没後は当主となり、源頼義・義家の国府側との激しい 戦闘を続けた。 ● 康平五年(1062年)出羽清原氏が源氏方の招きに応じて挙兵したため、一気に 戦況が不利となり、義弟藤原経清らとともに抵抗するが、厨川柵で討死した。 参考文献 栗山村の文化財 現状調査資料 発行 平成4年3月31日 栗山村文化財保護審議会 より |
湯西川温泉マニアックス トップページへ 戻る |
湯西川温泉 民宿 やま久 囲炉裏の温泉民宿 |