山口久吉の話
       詳しくは、民宿やま久 までご連絡ください。
                 0288−98−0902




   
湯西川温泉 湯殿山神社大祭礼と講中代参



                               山 口 久 吉

   湯殿山神社

    所在地、栃木県日光市湯西川、
    主祭神、大山祇命、
    配 神、月読命、出羽命、
    本 殿、流造り、間口一間、奥行二間、(ニ坪)
    例大祭、八月十八日(以前は旧暦の七月二十日であった) 通称二十日祭りと
        呼んでいた、
    宮 司、今市、二宮神社の宮司、
    氏 子、湯西川部落全戸数  二百四十五戸、
    例大祭の主催者、湯西川部落総代長、

   ★ 由緒沿革

   この神社に関する記録は、享保十一年(1726年)以後のものしか現存しており
  ませんが、東北文化の流れをくむ神仏習合の山岳信仰として、この地に温泉が発
  見された時に、湯の守り神として羽黒山の土を当地に移し、ご神体の湯滝になぞ
  らい、お山を造り神霊を勧請したと伝えられ。山で働く村人達の安全と五穀豊穣
  を祈願して毎年八月二十日に部落を挙げて、神仏混交の大祭典が行われて来まし
  た。


   ★ 例大祭のあらまし

   湯殿山神社は、湯殿山大権現と呼ばれ、部落の総鎮守として深く信仰され、八
  月二十日(現在は17日)に例大祭が行われますが、大祭の主催者は部落総代長
  であり、神輿の渡御は行人たちで行い、獅子舞いの奉納は若者たちによってとり
  行われている。

   十五日晩より、部落内の各坪から選出されて各々三名づつの行人が行屋(慈光
  寺)に泊り込んで祭り当日まで、ヒモノダチ、精進潔斎、湯西川の清流に梵天と
  注連を飾り一糸纏わぬ姿で禊を行い、朝夕神輿に額ずき、「天ツ神国ツ神、祓イ
  給ヱ潔メ給ヱ、湯殿山月山羽黒山、御山ノ大神ヲ護リ給ヱ、幸チワイ給ヱ、」と
  三十遍繰り返し祝詞をあげる。

   祭りの当日は行人たちによる神輿の行列がお寺を出発し、猿田彦の矛を先頭に
  お道開き、神官、僧侶、総代長、神輿、供物行人の順で「下におろう下におろう
  」と制止の声と法螺貝の音も高らかに沿道を練りながら。行列は神社に向かう。

   神社の境内では威儀を正して、若者組がこれを迎え、その中を神輿は御山に着
  き神輿が安置され、型通りの神事が行われます、祭文報告、玉串奉奠、お神酒頂
  戴と神事が終了すると、若者組の参拝となり、そのあと部落民一般者が参拝する
  。この後、若者組が三職(神官、僧侶、部落総代長)の席(テント張り)を鳥居前に
  特設し、その前で 上坪、下坪、の若者組の獅子舞えが奉納される。

   獅子舞えは文挟流で一人立ち三匹獅子で、祭りの為に厳しい練習と各師匠によ
  る厳しい審査を経たもので上、下坪二組の奉納獅子は競演のかたちで、初庭、後
  庭、二た舞えづつ交互に行われます、笛と太鼓に合わせて踊る優雅な三匹の獅子
  舞えは村の文化財指定。

   村人達は境内に桟敷を設け、獅子を見物しながら自慢の手料理で酒を酌み交わ
  し、村外からの親戚や観光客も入り混じって、山里ならではの野外大宴会が展開
  される。

   この日ばかりは、村外に出ている一族のほどんとの者が実家に戻り、年に一度
  の大祭を満喫する。昔は親類同志が境内でご馳走の交換をしあった。

   獅子舞えが終了すると、若者組の手で、幕、旗、がはずされ、社前に上、下、
  両坪の若者組が向かい合って参列し、部落総代長の音頭で万歳を三唱しお手打ち
  でお開きとなり、例大祭は終了となる。


   室町時代から今に続いて来た、祭りの行人制度、若者組みの付き合い、獅子舞
  えなど神仏混交の名残を今に残す山里の貴重な祭典として、昭和四十五年に栃木
  県民族文化財に指定され、現在に引き継いでいる。




  湯西川の信仰、湯殿山講中代参

   神仏の信仰の盛んな湯西川では、講中代参のお詣りが古くから行なわれていた。
  伊勢講をはじめ湯殿山講、男体講、古峰講、玉田講、田島講、三峰講等などがあ
  り世話人が講員を募集して、講を結成し毎年一回籤引きを行い、何人かが代表で
  お詣りを行ない、講員にお札等を配ってその神様を信仰していた。 勿論講員か
  らは掛銭を徴収して、代参の経費に当てていた。


  湯殿山講中代参帳

   県史編纂の史料調査中に、一冊の湯殿山講中代参帳が出てきた。中を開いて見
  ると、

    一、此度湯殿山講村中為安全私共世話仕候間御信心御方名印相印して掛銭取
      究之義五月節句講中籤取之砌相定め可申候、

       世話人  伴久左衛門、   阿部隼之助、   安倍源右衛門、
            山口三右衛門、  大類伊兵衛、   山口庄左衛門、
            安倍 政之助、  安部 栄吉、   安部 房之烝、
            阿倍 角之烝、  安倍金右衛門、  以下略す、

   と、あり伴久左衛門、外が世話人となり、五月節句に籤引きを行い代参人や掛
  銭を取決めていた事が分かる。この中に安倍、安部、阿倍、の姓が見えるが、現
  在これら文字の姓は湯西川にはいない。安倍の姓は奥州の豪族安倍一族に縁のあ
  る姓で川戸平に祀られてある釜神八幡宮の、落人伝説に因んだ姓と一致するが、
  落人を嫌っ今の阿部の文字に改めたとも云われており、代参帳に記載の姓は釜神
  八幡宮のある川戸平に見られている。

   この代参帳には、年代が記入されていないので何時の時代のものか分からない
  が湯西川では古くから出羽三山の湯殿山、月山、羽黒山に登拝お詣りしていたら
  しくモノモライが出来たときは、これらの三山に登拝した人の足で撫でて貰うと
  よくなるといわれ、信仰の程がうなずける。又、湯西川から出羽の國まで出向い
  てのお詣りは、大変な事であったろう文化九年申六 月吉日の湯殿山代参の記録
  には、七月四日に出立して同十六日に帰宅したが殊の外川増しで難儀致し候、と
  の記録があり往復十二日かかった苦労の程がうなずける。

   何時の頃か当地の修験者が、羽黒山の土を当地に移し、湯殿山の御神体の湯滝
  になぞらいてお山を作り、温泉の守り神として神霊をこの地に勧請したと伝いら
  れ、山で働く村人の安全と五穀豊穣を祈願して、毎年旧七月二十日(現在は8月
  17日)に部落を挙げて、神仏混淆の大祭典を湯西川で行なうようになり、湯殿
  山講も無くなった様である。

   勿論お祭りに奉仕する行人は、羽黒山の行者と同様の白衣の山法師姿で、法螺
  貝を鳴らしながらのお神輿の行列は勇壮そのものである。






                         ふる里探訪 湯西川 29
                         ふる里探訪 湯西川 19



資料、
  湯殿山講中代参帳
   
  湯殿山講中代参帳 


  この中に安倍、安部、阿倍、
         の姓が見える










       湯西川温泉マニアックス トップページへ 戻る 
          湯西川温泉  民宿 やま久  囲炉裏の温泉民宿