湯西川の歴史



     湯西川の歴史


     観光用の歴史が一人歩きをしている。今現在、語られている歴史は果たして本当
    の歴史なのだろうか、今一度見直すべきではないのか。

     下野研古文書究会員の著作物に、こんな言葉が掲載されていた。

     「こうした歴史感を置き去りにして、観光一筋に進んで来た感じがしないでもな
     い、村の真の歴史を追及することの今日ほどの大事な時期は無いと思うこと切で
     ある。」

     こうした真の歴史とは、本当の湯西川の歴史、間違いなく正史であろう。
    そして親が子供に諭す様なこの言葉を受け、今は亡き本物の歴史家達の調査結果を
    ここに此の文書として記載します。

    ◎ はじめに、

     本来の尊い先祖を敬い、子孫にその真実を語り告ぐ、その為には現在の私達が本
    当の歴史を見直し、認めなければならない事であり。この地の先人達の生きた証で
    もある事実と現実に対して、先祖と子孫を偽る事は、たとえ商業の為とはいえ現在
    の私達を許してくれるのだろうか、そして決して踏み入れてはいけない古来からの
    物や事柄を歪曲する事、これは罪である。

     落人伝説 これらに関わる話は史実では無く、語りつくられてきた物です。
    これらの伝説物語の内容の真意は問うのではなく、昭和中期の時代背景を良く理解
    し、伝説物語の中に秘められた人々の生活感情を暖かくくみとり、今日の観光発展
    の題材として敬意を表する態度も一つの現れでしょう。

     ただただ、神社仏閣史跡等の社稷に本来の祭神を召還させてあげたい。叶わない
    のであれば『墓陵の古文』を打つのみであります。

    ◎ 参考資料紹介

    @ 地誌編輯材料取調書 原版 解読版

    A 栗山村の文化財 現状調査資料 文化財調査記録編纂材料資料

    B 旧栗山村歴史資料数多 古文書数多 等

    C 栃木県史 日光史 他、周辺の史書

    D 歴史学者による、修士論文 著作物

    E 正確性の在る関連ホームページ


    ◎ 地誌編輯材料取調書(当地唯一の歴史書)より

     湯西川村
     『本村は往古都賀郡栗山村と称せり文禄年間故ありて分離す各一村の名称有し即
     ち今の九ヶ村なり、慶長年間塩谷郡に属せり尚詳細の事か中古出火の為に一村悉
     く焼亡せり、』(以下略)

       管轄治革
     『慶長年間以前は更に詳らかならず年号干支不詳抑も本村は下総国結城候の領す
     る所となりしより六十余年間即ち慶長年間迄城主連綿として相続て管轄せりと、
     而して右年間下総佐倉の陣家結城三河之を領せりと聞けり、その他領主姓名詳や
     ず慶長十四年酉年より同十九年迄六年間当国都賀郡板橋城主板橋将監の所領とな
     り』(以下略)


    ◎ 栃木県史編纂資料から

    湯西川最古の仏像、沢口薬師堂の薬師瑠璃光如来 弘仁十年(821年)弘法大師ノ
    自作とあり、仏像は寄せ木造りで精巧に出来ており、殊に蓮座の花弁が綺麗に彫刻
    されていて、坐像には棟札がある。

     棟札、一、文化四丁卯歳、弘法大師作、奉入仏薬師如来郷中安全諸病悉除、
          七月十七日、工匠棟梁土沢邑、福田富蔵、
                         とある、外二枚は省略する。
     鰐口、には嘉永六丑年四月吉日、沢口村講中、大加子、+△宗川、の銘文

     天正十八年(1590年)夏の頃、政変の理由により 隠れていた薬師瑠璃光如来、
    天文年間(1736年〜)の少し前に再登場して、後の文化四年(1804年)沢口薬師堂
    を造り奉入仏された。天文三年(1739年)高手観音に花和沢口の女中念仏講より薬
    師観音を寄付された記録がある。

     弘仁十年(821年)弘法大師ノ自作、

    ◎ それでは沢口薬師堂の薬師瑠璃光如来は、隠れる前に何処に奉られてたのか?
     栃木県史、日光史、から

     日光山常行三昧堂新造大過去帳 日光山往古社領六拾六郷(輪王寺蔵/県史中世
    4)によれば湯西川郷寺領を衆徒三十六房の一つ十乗房としたとある。
     また、衆徒領三十七郷段銭日記(二荒山叢書)に「湯西川郷 六百拾八文」と見え
    る。 県史によると 遊城院 この寺は往古より断絶せず寺地も移転せず。旧記に曰
    く、住持は代々宇都宮一家の子息を以って附弟とし、実名を代々「綱」の字をつけ
    る。寺領は板橋郷、栗山郷なり。その他の社領供料もあわせ、惣計二百貫余。坊人
    16房あり。往古は大房であった。大旦那は宇都宮の城主。綱仲法印、綱清法印は、
    当山の検校、学頭を兼ねた。さきの光樹房昌栄は、この寺に住持した。滝尾神社に
    いた時、年中行事の大帳を改め以後、山門東光房に住職し、執行を勤めた。慶長年
    中に、昌栄法印は日光山に帰り再住した。 さらに十乗房 この寺は、天正年中に断
    絶すとある。寺領は湯西川郷。

     往古日光山について、 仁治元年(1240年)第二十四世座主弁覚(第十八代別当
    源実朝の護持僧)は、平安末期の抗争により兵火にかかって焼失した本坊を、新し
    く建替え、光明院と称し日光山の本坊とした。この時日光山は非常な発展をとげた
    山内は新宮・金堂・常行堂を中心に中禅寺・滝尾等にも造営が及び、僧坊は光明院
    を中心に衆徒三十六房、支坊三百余坊と称された。

     三十六房とは、座禅院・三融院・浄月院・顕釈坊・遊城坊・浄土院・桜本坊
           ・教城坊・禅智坊・藤本坊・法門坊・光樹棒・仏眼坊・禅月坊
           ・禅南坊・座宝坊・戒乗坊・観日坊・総持坊・十乗坊・道樹坊
           ・禅寂坊・妙法坊・宝蔵坊・十地坊・普門坊・随仙坊・大聖坊
           ・実道坊・道義坊・円実坊・恵乗坊・実相坊・日乗坊・城華坊
           ・安楽坊、

     周囲の豪族達の子弟が養われ、各豪族の菩提寺となっていた。
    座禅院は小山・宇都宮・壬生氏、顕釈坊は結城・小山氏、遊城坊は宇都宮氏、浄土
    院は千本野木城主、桜本坊は佐竹一族の小瀬・松野、那須一族の森田・高瀬、教城
    坊は那須・佐竹・真名子氏、禅智坊は塩谷氏、法門坊は那須一族の金丸氏、檜野木
    城主本間氏、等々それぞれ子息を付弟としていた。
     これにともない往古日光山の所領も増大、往古社領六十六郷と称された。

     六十六郷とは 石那田郷・大矢那久郷・大桑郷・土々呂久郷・関沢郷・山口郷
        ・上薩島郷・下薩島郷・土沢郷・おとろ沢郷・芹沼郷・小倉郷・小代郷
      ・明神郷・岩崎郷・文挟郷・板橋郷・室瀬郷・芹岡郷・長畠郷・小矢那久郷
     ・野田郷・福岡郷・那羅部郷・深谷郷・黒山郷〔栗ヵ〕・湯西川郷・小来川郷
        ・府所郷・粟野郷・粕尾郷・押原郷・玉田郷・美濃郷・豊岡郷・篠原郷
        ・飯山郷・村蔭郷・花岡郷・西鹿沼郷・小比矢久郷(小百郷)・大芦郷
       ・朽窪郷・小荷子郷・板荷郷・大芦郷〔マノ〕・南摩郷・藤沼郷・塩室郷
        ・松賀野郷・守友郷・高久郷・籾山郷・菅沢郷・小林郷・瀬尾郷、
        都賀郡・寒川郡と河内郡半分は源頼朝に寄進され、
        薗部・大平郷は後鳥羽院から、日名田郷は犬懸御所から、
        久野郷は宇都宮重綱から、久賀郷は宇都宮忠綱からそれぞれ寄進され、
        足尾郷は中禅寺上人の開拓地であった。


      そう、比叡山に次ぐ大寺領関東一の日光山、山岳信仰の道導、弘仁年間に弘法
     大師の思惑が走る。近隣の寺は弘仁十年前後に弘法大師の手により改築された記
     録が現存する。ここ湯西川郷も例外ではない、天正年中に断絶した寺領、湯西川
     郷十乗房の数ある一仏が、沢口薬師堂の薬師瑠璃光如来である。本物だよ。

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      以下 書き換え中


     見ての通り戦国乱世の時代です。
     では、湯西川はどうなっていたのでしょう。

     地誌編輯材料取調書より
       湯西川村
     『本村は往古都賀郡栗山村と称せり文禄年間故ありて分離す各一村の名称有し即
     ち今の九ヶ村なり、慶長年間塩谷郡に属せり尚詳細の事か中古出火の為に一村悉
     く焼亡せり、』(以下略、後ほど)

       管轄治革
     『慶長年間以前は更に詳らかならず年号干支不詳抑も本村は下総国結城候の領す
     る所となりしより六十余年間即ち慶長年間迄城主連綿として相続て管轄せりと、
     而して右年間下総佐倉の陣家結城三河之を領せりと聞けり、その他領主姓名詳や
     ず慶長十四年酉年より同十九年迄六年間当国都賀郡板橋城主板橋将監の所領とな
     り』(以下略、後ほど)

     地誌編輯材料取調書によると、『湯西川村は中古失火の為に一村悉く焼亡せり』
    とある。また、『文禄年間(1592〜1596)故ありて分離す各一村の名称有し即ち今
    の九ヶ村なり』ともある。
     湯西川は此の時「焼亡」したのだ。ただ焼けなのではなく、一村悉く焼け亡んだ
    と云う事である。正直大変ショッキングな出来事である。事実を確かめる為には、
    この地に資料は無い。ただ、この地に資料が無いと言うだけの事。

     では、周り口説く、分かり易く行ってみよう。

     まず、地誌編輯材料取調書にある九ヶ村の経緯を書き並べてみる。

    日蔭  村の創設は藤原鎌足の尊子淡海公の末孫にして加賀金沢の藩、氏部某?
        持統元年( 687年)三月十八日本村に来たり 旧記書類は錯雑

    土呂部 黒部村より黒部呂左エ門(後の土屋六左エ門)、天智二年( 663年)三月
        十九日分家せしめ

    日向  村の創立は藤原鎌足の尊子淡海公の末孫にして加賀金沢の藩、氏部某?
        持統元年( 687年)丁亥三月十八日本村に来たり 旧記書類は烏有

    黒部  村の創設たるや斉明七年( 661年)中遠州浜松の藩黒部某なるもの、
        旧記書類は粉雑

    湯西川 中古失火の為に一村悉く焼亡せり、之を以て旧記書類等夫ヶ為め烏有

    川俣  中古に至り一村悉く失火の為め羅災に逢う、之を以て記録知るに縁なし

    野門  中古失火の為に一村悉く焼失せり 之を以て旧記書類等一朝烏有に帰す

    西川  文禄年間(1592〜1596)部落による分断、中古に当たりて一村悉く焼失の
        為に旧記書類等は消尽

    上栗山 大栗の庄と号せし文禄年間に至り烈して九ヶ村となす、洪水の為に旧記を
        浸亡す

     栗山郷の八村は全て文禄年間(1592〜1596)故ありて分離し各一村の名称有し、
    今の九ヶ村となったている、ただ上栗山だけは烈して九ヶ村となった。とあり、言
    葉の難しい所は文禄年間に故があり九ヶ村となったか、それとも『故ありて分離』
    は同時に起こったのか。 検証してみる。
     ただ、解る事はこの文禄年間(1592〜1596)以前に何かが起こった事は事実であ
    り。 さらに九ケ村の内四ケ村(湯西川、川俣、野門、西川)が中古火災にあって
    いる、湯西川村においては焼け亡んでいる。ショックのあまり国語辞典をひいてみ
    た。焼亡とは焼失の類意語では在るが、古文の世界では神社仏閣や城などに使用す
    る場合が多いらしい。 だとすると何か湯西川村に建っていた神社仏閣か城が焼亡
    した、それも一村悉く、何かこの時代の勢力権力者ごと。という可能性が出てくる

     そこで、この戦国時代のこの地域の勢力権を調べてみた。
     ここからは、栃木県史 日光史 等をふまえる。

     日光山常行三昧堂新造大過去帳 日光山往古社領六拾六郷(輪王寺蔵/県史中世
    4)によれば湯西川郷寺領を衆徒三十六房の一つ十乗房としたとある。
     また、衆徒領三十七郷段銭日記(二荒山叢書)に「湯西川郷 六百拾八文」と見え
    る。 県史によると 遊城院 この寺は往古より断絶せず寺地も移転せず。旧記に曰
    く、住持は代々宇都宮一家の子息を以って附弟とし、実名を代々「綱」の字をつけ
    る。寺領は板橋郷、栗山郷なり。その他の社領供料もあわせ、惣計二百貫余。坊人
    16房あり。往古は大房であった。大旦那は宇都宮の城主。綱仲法印、綱清法印は、
    当山の検校、学頭を兼ねた。さきの光樹房昌栄は、この寺に住持した。滝尾神社に
    いた時、年中行事の大帳を改め以後、山門東光房に住職し、執行を勤めた。慶長年
    中に、昌栄法印は日光山に帰り再住した。 さらに十乗房 この寺は、天正年中に断
    絶すとある。寺領は湯西川郷。

     往古日光山について、 仁治元年(1240年)第二十四世座主弁覚(第十八代別当
    源実朝の護持僧)は、平安末期の抗争により兵火にかかって焼失した本坊を、新し
    く建替え、光明院と称し日光山の本坊とした。この時日光山は非常な発展をとげた
    山内は新宮・金堂・常行堂を中心に中禅寺・滝尾等にも造営が及び、僧坊は光明院
    を中心に衆徒三十六房、支坊三百余坊と称された。

     三十六房とは、座禅院・三融院・浄月院・顕釈坊・遊城坊・浄土院・桜本坊
           ・教城坊・禅智坊・藤本坊・法門坊・光樹棒・仏眼坊・禅月坊
           ・禅南坊・座宝坊・戒乗坊・観日坊・総持坊・十乗坊・道樹坊
           ・禅寂坊・妙法坊・宝蔵坊・十地坊・普門坊・随仙坊・大聖坊
           ・実道坊・道義坊・円実坊・恵乗坊・実相坊・日乗坊・城華坊
           ・安楽坊、

     周囲の豪族達の子弟が養われ、各豪族の菩提寺となっていた。
    座禅院は小山・宇都宮・壬生氏、顕釈坊は結城・小山氏、遊城坊は宇都宮氏、浄土院
    は千本野木城主、桜本坊は佐竹一族の小瀬・松野、那須一族の森田・高瀬、教城坊は
    那須・佐竹・真名子氏、禅智坊は塩谷氏、法門坊は那須一族の金丸氏、檜野木城主本
    間氏、等々それぞれ子息を付弟としていた。
     これにともない往古日光山の所領も増大、往古社領六十六郷と称された。

     六十六郷とは 石那田郷・大矢那久郷・大桑郷・土々呂久郷・関沢郷・山口郷
        ・上薩島郷・下薩島郷・土沢郷・おとろ沢郷・芹沼郷・小倉郷・小代郷
        ・明神郷・岩崎郷・文挟郷・板橋郷・室瀬郷・芹岡郷・長畠郷・小矢那久郷
        ・野田郷・福岡郷・那羅部郷・深谷郷・黒山郷〔栗ヵ〕・湯西川郷・小来川郷
        ・府所郷・粟野郷・粕尾郷・押原郷・玉田郷・美濃郷・豊岡郷・篠原郷
        ・飯山郷・村蔭郷・花岡郷・西鹿沼郷・小比矢久郷(小百郷)・大芦郷
        ・朽窪郷・小荷子郷・板荷郷・大芦郷〔マノ〕・南摩郷・藤沼郷・塩室郷
        ・松賀野郷・守友郷・高久郷・籾山郷・菅沢郷・小林郷・瀬尾郷、
        都賀郡・寒川郡と河内郡半分は源頼朝に寄進され、
        薗部・大平郷は後鳥羽院から、日名田郷は犬懸御所から、
        久野郷は宇都宮重綱から、久賀郷は宇都宮忠綱からそれぞれ寄進され、
        足尾郷は中禅寺上人の開拓地であった。

     栗山郷おそらく上栗山村含め表栗山あたりを遊城院とし。湯西川郷には西川郷を
    含め十乗房として、統治、菩提寺としていた。 
     ただの寺ではない御坊いわゆる城郭、そして寺領。往古日光山が戦国時代までに
    統治していた領土という事と、また各豪族も同時一緒に領政していた事になる。 
     日光山は徳川幕府から呼ばれそれ以前は二荒山と書いて(ニッコウサン)、地誌
    編輯材料取調書によれば湯西川は文禄年間(1592〜1596)以前は上西川であると書
    いてある。

     要するに、県史を元に考えると、室町と戦国時代 ここは二荒山領内 上西川郷
    で十乗房と云う寺領が確実に存在していたことになる。

     では何故、御坊と一村悉く焼け亡んだか。

     県史によれば 天正十八年(1590年)秀吉の小田原城攻めの際、日光山衆徒は壬
    生義雄と共にに出兵、北条氏に加担し秀吉の怒りをかい、門前屋敷と足尾郷を残し
    すべての寺領を没収または焼討ちとなり。 領内外の僧徒は四散し、日光山は滅亡
    状態となる。とある。 勘が悪くてもそろそろ何があったか解るはず。
     十乗房この寺は、天正年中に断絶すとある。そして地誌編輯材料取調書に焼け亡
    ぶと記載されているのだから、年号事柄が合致する結果となり、ここ湯西川郷も秀
    吉に焼討ち又は没収された事になる。
     
     では、何時なのか天正十八年(1590年)七月五日が小田原城開城、同十三日、北
    条氏を降伏させ、同二十六日それから宇都宮城入城、宇都宮城での秀吉の滞在期間
    は合計11日間、その後、会津の巡察行軍を行って再び宇都宮に入城するまでの八月
    四日から同十四日まで10日間を含めると、その期間はわずか20日間、ちなみに、秀
    吉が入城した宇都宮城下は、北条勢力の日光山僧兵等による焼き討ちなどで焼失し
    ていたのだ。秀吉相当お怒りだったかな? 地誌編輯材料取調書を元に考えるに、
    この年のこの夏盆前には湯西川郷寺領十乗房と供に、湯西川村も悉く焼け亡んでい
    た事になる。
     付記すれば、秀吉は会津からの帰路途中、塩原で温泉に入り日光参拝に行ってる

     これの出来事が地誌編輯材料取調書による故ありての『故』であり。年号が変わ
    って文禄年間(1592〜1596)の頃、九ヶ村となったのだろう。
     ただ栗山郷遊城院は断絶せず寺地も移転せずとあるから、烈して九ヶ村となった
    のか。没収のみである為か。
     県史等々参照の結論から云えば、安土桃山時代(戦国時代)末期この旧栗山も日
    光山寺領で秀吉に領地没収にあっている事になる。

     ここで確認しておきたい、栗山郷遊城院は断絶せず寺地も移転せずとあるから、
    今も在るはず。寺領は板橋郷、栗山郷で、その他の社領供料もあわせ、惣計二百貫
    余。坊人16房あり。とある。御坊の集合体のようなものだね。では今在る栗山郷の
    寺を見てみよう。

     日陰村  自在寺 慈眼山金剛成就院と号す
              創立 持統六壬辰年( 691年)四月十八日 大栗山
              再建 弘仁三辰年 ( 812年)三月三日 弘法大師再興

     日向村  龍蔵寺 明神山 茨城県茨木郡広徑寺の末派
              建立 持統六辰年 ( 691年)十二月 
              再建 弘仁三辰年 ( 812年)弘法大師再興

     上栗山村 長研寺 今市駅如来寺の末派
              建立開基 不明 
              再建 弘仁三年( 812年)十二月十八日

     これら、現在の栗山郷遊城院の領寺内の寺であったと思われる。弘法大師再興の
    手が入れば、往古日光山系列の寺である。

     では、湯西川郷に今在る寺を見てみよう。

     湯西川村 慈光寺 仏生山 石上坪平坦にあり今市宿如来寺の末派
              建立開基 不明
              慶長拾二年八月(1607年)当山五世円蓮社鏡誉上人代、
              此地に移転す とある。

     湯西川に在るお寺(1590年)夏頃、秀吉の焼討ちに合い悉く焼亡し、その後17年
    の時間を経て今の所に移転して再建されたので、沢口向の寺と川戸平の寺、この二
    つの寺を合併し一寺とした。とある。      

     湯西川には確かに寺屋敷跡地が存在し古地図や、民俗学ではあるが、お話の中に
    チラチラと寺屋敷跡地が登場する。
     歴史の文書を見るに、移転前の其れこそが、湯西川郷寺領十乗房の御坊である結
    論に到達する。

    ここで、追撃をしておこう。
    栃木県県史編纂の史料の古文書に、

       字沢口向、薬師、  一、弘仁十年弘法大師ノ自作、
                 一、木象居丈九寸三分、信仰 山口冨吉、外拾壱人、
                                     とある、

     弘仁十年( 821年)とは。お堂の中には、ご祭仏の薬師瑠璃光如来の坐像と棟札
    があり。仏像は寄せ木造りで精巧に出来ており、殊に蓮座の花弁が綺麗に彫刻され
    ていた。

       棟札、一、文化四丁卯歳、弘法大師作、奉入仏薬師如来郷中安全諸病悉除、
            七月十七日、工匠棟梁土沢邑、福田富蔵、
                           とある、外二枚は省略する。
       鰐口、には嘉永六丑年四月吉日、沢口村講中、大加子、+△宗川、
                                 の銘文があった。

     弘仁十年( 821年)に弘法大師が自作した薬師如来を、文化四年(1807年)御堂
    を作って奉入仏したんだね。 正式名称は薬師瑠璃光如来、信仰とあるから、文化
    四年(1807年)の御堂への奉入仏以前から彼らが此の地の何処かに置いて信仰して
    いたんだろうね、とにかく弘法大師が関われば100%往古日光山の関連仏だよ。

     もしかすると、湯西川郷寺領十乗房の寺も、弘仁三年( 812年)の頃、弘法大師
    によって再興され、弘仁十年弘法大師が自作した今の薬師堂の此の薬師瑠璃光如来
    を奉仏していた。沢山あった仏像のひとつを、秀吉の焼討ち前に誰かが隠したか、
    焼討ち後沢口向で発掘されたか、十中八九間違いないね。
     信仰されていたのは事実だけど。証明されれば、湯西川一の文化財だね。

     ちなみに今市市如来寺は文明年間(1469〜87年)に常福寺(茨城県那珂市瓜連)
    の第五世・昇蓮社超譽聖欽上人の高弟であった金蓮社暁譽最勝大和尚によって開か
    れた。さらに、今市市板橋城は永正年間(1504〜1520年)日光山の遊城坊(宇都宮
    氏一族)によって築かれ、天文年間(1532〜1555年)には、もと小田原北条氏の武
    将で鹿沼壬生氏の配下となった板橋将監親棟が占拠し、ここを拠点として周辺に武
    威を振った。

     続いて栗山郷遊城院と湯西川郷十乗房の関連性に入っていく。此処から栗山村の
    文化財現状調査資料と文化財調査記録編纂材料資料を主に書いていく。

     注目するものは、六地蔵逆修供養塔。現在は日向野尻の薬師堂まえ、湯西川石上
    慈光寺の墓内にある史跡、両方同型状の石碑佛でこの室町時代に流行していた供養
    塔であり、全国に数多く建てられている。この時代に建てた理由は一つ、戦に行く
    自分や他人等を、亡くなってからでは供養出来ないので、六道を以って先に供養す
    る、逆修の供養塔なのです。屍と成り墓も無き土草に埋もれる我が身、また修羅と
    成り人を殺生する懺悔か、そして食に飢え苦しみ、恐怖の中で人である理性との境
    目、共に喜びまた悲しみ と、この時代の事であり様々な思いがあったであろう、
    宗教的信心深きこの時代の人々の心、現代人如きには想像もつかないであろう。 
     六地蔵とは六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)仏の教えでは、人間の
    心とか感情の様なもの、現代的に言い換えると精神状態だね。その六道に於いて、
    衆生の苦患を救おうという事かな。

     では、此の地の六地蔵逆修供養塔の説明をしよう、

     日向野尻の薬師堂まえ 『天文二年丁酉八月日廿三日』(1533年)の銘。

     湯西川石上慈光寺内  『天文十八年巳酉季三月吉日』(1549年)の銘。

            さらに、『六地蔵奉為逆修善退也』の陰刻がある。

     湯西川郷においては、善を退く也と、刻まれている。此処まで来れば誰が何の為
    に建てた供養塔かお解りだろう。 戦国時代の戦に参加するであろう、仏に仕える
    日光山の将や兵僧達とその関係者以外の何者でもない。彼らもまた六道を以って逆
    修の供養行っていた事が解る。
     そうなると関連性、繋がりが見えてくる。旧栗山郷の栗山郷遊城院と湯西川郷十
    乗房の寺領内の六地蔵逆修供養塔は、栗山村の文化財 現状調査資料と、文化財調
    査記録編纂材料資料によれば、同型状の石碑であると調査結果が書かれている。
     年代16年の歳月の後、湯西川郷十乗房の寺領内に建てた供養塔なのだ。 

     逆修といえば、湯西川郷にはもう一つ年代の判明している石碑がある。 それは
    湯端から川戸平に行く手前の細道と云う難所にある、乞食りゅう五輪の塔供養塔で
    ある。 四面梵字で書かれている。

          『権律師、碩恵、頑修、永正八辛未日』(1511年)碑文

     解り易く簡単に解釈すると「1511年8月(盆の頃だね)権律師と云う位の、碩恵と
    云う僧侶が、頑修即ち逆修に通じる供養をした。」そういう事だ。
     この碩恵と云う僧侶、当時の湯西川郷十乗房での役は不明だが、この地に存在して
    居た確立は濃厚、この方もまた日光山系列であろう。

    往古日光山(二荒山)は平安時代より源氏の領土、支配権でした。
    現在の日光山は江戸時代、徳川家の領土でした。

     サラッと書いてみたけど大体見えて来たかな、湯西川の歴史が。 
     パソコンに打つのも読み直すのも疲れる。読んでる方も大変だと思う。

     でも、そろそろ終りじゃないよ、ここまでは序章。ここからいよいよ湯西川郷戦
    国時代の本題に入っていく。

     それでは、地誌編輯材料取調書の湯西川郷の支配関係を見てみる。 管轄治革。
    『慶長年間(1596〜1615年)以前は更に詳らかならず年号干支不詳抑も本村は下総
    国結城候の領する所となりしより六十余年間即ち慶長年間迄城主連綿として相続て
    管轄せりと、而して右年間下総佐倉の陣家結城三河之を領せりと聞けり、その他領
    主姓名詳やず慶長十四年酉年より同十九年迄六年間当国都賀郡板橋城主板橋将監の
    所領となり』とある。
     焼亡したから文章は残ってないが、下総国結城氏が代々相続して治めていた六十
    余年間も。ちなみに、西川郷、川俣郷、野門郷も 下総国結城氏だった。

     下総国結城氏は小田原北条攻めでは秀吉側に付いていて、下総国結城氏は小田原
    征伐後、下野国は南半分から鹿沼地方までも治めた。湯西川郷だけでなく西川郷、
    川俣郷、野門郷の中古失火のあった郷が統治されている。
     関ヶ原の戦い後の慶長九年(1604年)越前に転封に成っている。

     ここで、古文書の追求が出てくる。下総国結城氏は何年から湯西川を領していた
    か、と云うこと。 この時代の往古日光山は宇都宮氏、壬生氏などと支配や協力等
    の関係があったが、地方や前線は、その年々によりかなり変化があり、その寺領の
    御坊により支配形態が混雑であった様で、湯西川郷十乗房も例外では無い。
     下総国結城氏の支配年代の推定に入る。まず、何時まで領していたか、六十余年
    前を計算してみる。

    @ 慶長十四年(1609年)橋城主板橋将監の所領 迄なら(1538〜1549)頃から

    A 慶長九年 (1604年)越前に転封 迄     なら(1533〜1544)頃から

    B 天正十八年(1590年)往古日光山の領地没収 迄なら(1521〜1530)頃から

    『六十余年間即ち慶長年間迄城主連綿として相続て管轄せり、而して右年間下総
    佐倉の陣家結城三河之を領せりと聞けり、その他領主姓名詳やず』とあるのだか
    ら、古文書の通りならAなのだろと考えるが、ここが言葉や文章の難しい所。
     往古日光山は、天正十八年(1590年)秀吉に全領地没収されたのだから、下総
    国結城氏はこの頃以後の文禄年中(1592〜1596)の九ヶ村時代の頃まで領してい
    たかは不明、ただ、慶長年間(1596〜1615)は塩谷郡に属せりとある。
     秀吉の下野国検地は 1593〜1595年の間に行われ、1597年には宇都宮国綱は領
    地没収になっている。
     考えるに天正十八年(1590年)往古日光山の領地没収以後の文禄年間(1592〜
    1596)の九ヶ村時代は下総国結城氏の領と云うだけで、事実上は秀吉の管轄地だ
    ったのだろう。 慶長三年(1598年9月18日)秀吉は死去している。
     慶長九年(1604年)関ヶ原の戦い、慶長十四年から当国都賀郡板橋城主板橋将
    監の所領となった。慶長九年(1604年)以後、慶長十四年は既に徳川家の領地だ
    ったはず。下総国結城氏から板橋将監の間の時期は、『その他領主姓名詳やず』
    と在るのだから、この数年間は不明と云うこと。

     室町末期安土桃山の戦国時代から江戸幕府、ここ湯西川においても小田原征伐
    後の1590年から江戸幕府開府1603年の13年間、時代の政変に晒されていた。
     そして地誌編輯材料取調書による、『湯西川村は中古失火の為に一村悉く焼亡
    せり、文禄年間(1592〜1596)故ありて分離す各一村の名称有し即ち今の九ヶ村
    なり』が、日本の歴史通りに上手にかみ合う事になり。其れにも増して『地誌編
    輯材料取調書』が歴史書として信頼できる書物となる。

     そして追求の下総国結城氏領の始まりにはいる。
     地誌編輯材料取調書によると上栗山郷は、『正応年間鹿沼左右ェ門太夫教清太
    守たりしが大永三年十月廿八日宇都宮十八代の太守忠綱の強兵に一族悉く討死す
    故に宇都宮忠綱の握るところとなる。』とある。 鹿沼左右ェ門太夫教清これは
    鹿沼右ェ門太夫教清の事、鹿沼教清である。
     鹿沼教清は上野台合戦で大永三年(1523年10月28日)宇都宮家に討取られてい
    る。大永三年(1523年)以後上栗山郷は宇都宮家支配の領となっている。湯西川
    郷は、それ以後15年以内に下総国結城氏領となっている。何時なのか宇都宮氏と
    結城氏の交渉関連を見てみる。

     大永六年(1526年)結城政朝は下野国宇都宮領に侵攻。忠綱は出陣し戦うが敗北
    忠綱は宇都宮城に撤退するが、宇都宮城は芳賀高経の策謀により輿綱に占拠され
    忠綱は壬生綱房の居城である鹿沼城に身を寄せる。宇都宮輿綱は忠綱の弟?。
     しかし天文五年(1536年)輿綱は壬生綱房、芳賀高経のらに自害させられる。
    その恨みか子尚綱は天文十年(1541年)芳賀高経を殺害、同年結城政勝の姫を室
    として貰っている。

     この結城政勝の姫との政略結婚の天文十年(1541年)後、湯西川郷十乗房は、
    下総国結城氏領となった可能性が出てくる。戦国時代の同盟交渉等の政略結婚結
    納金は、金品だけでなく宝物産や領土等も含まれる事があった。ここ湯西川郷も
    その一つだったのだろうか。
     もう一つは、大永六年(1526年)結城氏の下野国宇都宮領に侵攻の敗戦交渉なの
    だろうか。 ただ年代は噛み合うが内容が今一で確信が見えてこない。

     そして何より上栗山郷の様に鹿沼教清が、湯西川郷十乗房を領していた事も考
    えにくい。 下総国結城氏領以前は下野国宇都宮氏領では無い、いや、応仁天明
    の乱(1467〜1477年)の後、宇都宮家は戦に次ぐ戦で勢力を失っていて、このこ
    ろ(1490年以前)は日光山への影響力は弱体化していたのだから、下野国宇都宮
    氏領では無い可能性が高い。すると、下総国結城氏と下野国宇都宮氏との交渉事
    では無い可能性も視野に入る。

     では、誰が湯西川郷十乗房を領していたのか。
    古文書に『湯坂、居村平沢より登り絶頂に至り里程壱里拾三町北へ登り坂急にし
    て難、塩谷郡芹沢村を経て三依村へ掛かり岩代国田島若松への線路なり。』と、
    あり、地図上では湯西川川戸平から芹沢村まで、凡そ直線で5、6キロ。湯西川
    温泉駅までの訳半分位、ここに会津への旧道湯坂峠がある、その芹沢に南会津の
    南山長沼、会津田島の長沼家の支城、芹沢城があった。ちなみに古地図には湯西
    川から三依まで旧道湯坂峠を通り三里とある。 たったの三里、温泉街から平沢
    まで約二`半、三依から途中芹沢まで約二`、引いても徒歩でそれほどの距離で
    はない。

     明応年間(1491年)以降、宇都宮塩谷氏と会津蘆名長沼氏の争いが頻繁に起こ
    り始めていた。会津蘆名長沼氏は勢力を盛んに文亀二年(1502)塩原橘氏を陥落
    させ、 文亀三年(1503)塩谷郡合戦が会津田島長沼氏、下野宇都宮氏で会戦。
    塩原は1510年には宇都宮領に戻っているが、五十里、中三依、上三依、芹沢、横
    川は、長沼領になった。おそらく、湯西川郷も最悪、陥落まであったか、支配領
    に関わったか、また、何等かの戦略は在ったと思われる。また、それ以外の何か
    往古日光山故に踏込めない理由が在った可能性もある。 
     それにしても、芹沢城と湯西川郷は近い、近すぎる。ただ、これは推測であり
    現在考えられる最大級の可能性である。

     この長沼氏、そして結城氏、共に関係が深いのが湯西川にこの時代建立された
    鎮守様事、高房神社である。この高房神社は沢口向の寺屋敷跡地に背を向け東側
    の高台、さらに湯端(現在の温泉街)を見下ろす形で建立されている。また、川
    戸平の寺屋敷跡地の西側、こちらは温泉街方角を背に建立されている。
 
    この高房神社、
       赤沢筋(上社)は古文書の記録では『永正元甲子年正月開』(1504年)
       川戸平(下社)は棟札に『永正十一年甲戊正月開建』(1514年)
                                    とあり、
     御祭神は高房大明神『藤原高房』であると、国の神社名簿下野神社沿革史(明
    治36年1903刊)や、郡村の神社名簿にあり、また常陸国係杉山私記常陸国真壁郡
    郷土史(明治26年)にも高房大明神とは藤原高房の事である、と神名が記載され
    ている。 また、主祭神は『武甕槌大神』『経律主大神』で、諏訪大明神も共に
    祭られている。
     この諏訪大明神は信濃国、長野県の諏訪大社(諏訪神社)からの分祀で、これ
    の主祭神は『建御名方神』『八坂刀売神』であり、諏訪大社の大祝を努めてきた
    諏訪氏は清和源氏の源満快の末裔である。
     御神体共にほぼ同年代の物ではないかと考えられ、大きな年代の誤差無く祭ら
    れたのではないだろうか。

     では何故、長沼氏、結城氏に関係が深いのかと云うと、長沼氏は、本姓藤原氏
    家系は藤原北家の末裔で鎮守府将軍藤原秀郷の血筋。小山氏の支族である。源頼
    朝に従った小山政光の次男宗政が下野国芳賀郡長沼(現真岡市)に領地を得て長
    沼氏を称したのが始まり。宗政の長兄朝政は小山氏を継ぎ、弟の朝光は下総国結
    城に住み結城氏の祖となる。 また、朝光の五男朝良は下総国長沼(現成田市長
    沼)に住んで下総長沼氏の祖先。長沼氏の一流は古河公方に仕えて長沼荘から離
    れた下野国皆川荘(現栃木市)に移住して皆川氏を称した。会津田島の鴨川城主
    当時の長沼実国は、源頼朝時代の次男宗政の子達の分岐である。
     ちなみに、下野宇都宮氏も藤原北家 藤原宗円が、源義家の奥州討伐(前九年
    の役)での功により宇都宮別当職に任じられ、宗円の孫の宇都宮朝綱から苗字を
    宇都宮氏を名のる。 那須氏も藤原北家 藤原道長の六男・藤原長家の孫 資家
    (貞信)を祖とし、那須資隆の時、那須氏を称している。

     長沼氏、結城氏、小山氏、皆川氏、下野国の同一族が藤原北家の小山支族であ
    る。そして何よりこの結城氏、現在の旧結城領近辺には今も高房神社が点在して
    いる。しかも素人目に見ても同系同型同建築物の物が存在する。百聞は一見にし
    かず。

     栃木県栃木市皆川城内町 傑岑寺

     茨城県東茨城郡城里町

     茨城県小美玉市飯前

     茨城県桜川市

     茨城県笠間市鴻巣

     茨城県常陸大宮市小野

     千葉県香取市多田

     茨城県神栖市息栖

     山形県東置賜郡高畠町北和田

            みんなインターネットで検索検索!!

     語らずとも悟り、この時代ここ湯西川郷に、この一族に関わる何等かの力が働
    いた事は、否定する事が不可能になってくる。ただ残念な事は当地には物証のみ
    と、僅かな古文書の記録しか残されていない。ここで県史、日光史、藤原史から
    追査を図ってみる。

     長沼氏が歴史に登場するのは『吾妻鏡』(あがつまかがみ)寿永三年(1184年)
    二月五日条、一の谷合戦の為播磨国に集まった源氏軍の中に「長沼五郎宗政」と
    見え、「長沼宗政」としての初見である。
     「長沼宗政」は奥州藤原氏征伐にも参陣し、その武勇高めた。
     建保元年(1213年)日光山別当弁覚と時の三代将軍源実朝とのやり取りもある
    『吾妻鏡 建保元年九月二十六日条、件の法師ににおいては(中略)勇士これな
    きが如し』云々。(後ほど)
     「長沼宗政」は仁治元年(1240年)十一月十九日、七十九歳で没する。その死
    の十年前の寛喜二年(1230年)その所領を嫡子時宗に譲っている。その時作成さ
    れた譲状があり、その中に『陸奥国南山』の地名がある。
     『陸奥国南山』とは『会津南山』現在の福島県田島を中心に。

     ?

     二年掛けて文章整理したけど、歴史のパズルの解き方、書ききらない。

     ここで、短刀直入に滝落とし戦法。

     はっきり言えば、余談系列の著作物を拝読する前に、栃木県史、日光史、藤原
    町市、舘岩村史をよく読もう。それから、俗物系著作物の格下歴史書を読み、よ
    く考えよう。特に日光史上巻には中世の事柄がよく説明されている。

     えっ、栗山村史は無いのかって?

     答えは、あるよひとつだけ!!

     栗山村誌とか云う、本はあったけど。
    この本歴史書としては程遠く、史を付ける事が許されなかった、伝承系フィクショ
    ンの民俗学書。こんな事言ったら怒られるかね。Www

     監修者、尾島利雄氏、素晴らしい民俗学者であります。当時、栃木県民俗文化研
    究所所長。ただ歴史学者ではありません。彼が此の製本に当たり、相当苦労された
    のもと共感致します。本作品のP31、栃木県史、日光史に曰く、日光山往古社領
    六拾六郷を元に歴史を語る事が出来たのなら、この本は史書として後世まで語り継
    がれたと評価します。ただこの本は、伝承を元に書いてしまった。残念で無念です
    これが、「史」が許されなかった理由のひとつです。 まあ、その前に資格が必要
    らしいけど。何らかの力に勝てません。

     さて置き、当地の歴史書は、明治新政府が調査資料編纂して作成した書物、地誌
    編輯材料取調書のひとつのみ、後にも先にも歴史書はこの一冊のみです。
     この歴史書は皆見た方がいいです。特に当地の方は。家にあるから見においで。
    因みに地誌編輯材料取調書はだれの物でもない新明治政府の作成した、民書で当地
    の資料です。何人たりともその閲覧の妨害はできません。
     知るべき人が知り、語るべき人が語る。人が身分を問うのであって、書物は身分
    を問わないのです。誰もが調査し本当を語る歴史の真髄です。

     湯西川の中世史のすべてが地誌編輯材料取調書にほぼ詰まっている。あとは歴史
    家の紐解いた「史」のつく書物が答えであると確信する。

     えっ?

     なんで、日光山往古社領六拾六郷十乗坊を湯西川が語れないかって?

     それは、日光山往古社領は源頼朝の御膝元、数ある戦にここ日光山から僧兵を、
    対平家に出兵した記録が残る土地だからです。往古日光山=源氏、諏訪大社=源氏
    そして、そして、義経ですら此の領土を通過する事を嫌い、わざわざ外回りを選ん
    だほどの、大源氏領だったからです。彼らは匿われたとは言え、来ませんよこんな
    所、だって怖いもん。Www

     『吾妻鏡』も拝読。平貞能の都落ち、よく読んでからここに来てね。
    宇都宮朝綱の所に源頼朝の許しを得て、平貞能は重盛の妹であった妙雲尼と数人の
    お供と落ちてきた。猜疑心の強い頼朝は、このお供まで平家再興の疑いを掛け調査
    したはず。数人のお供、歴史上その名を抹消された人物達で平家再興の疑いが無い
    ことが証明され許された。平家の血統は平貞能は妙雲尼のみであり。数人のお供?
    とは10人以下せいぜい五、六人位、平家の血は引いていない(確信)
     そんなのが居たら、宇都宮家おとり潰しだからね。再興の意思が無い事を確認し
    たらしいけど、源頼朝怖いよ、静御前の義経の子供まで懐妊の確認してるんだから
    。因みに此の都落ちの時、平貞能、妙雲尼ともに結構な高齢、五、六人のお供もそ
    れなりの高齢だったと考えられる。若いのいたら頼朝疑うだろ。
     

   力無き故、今はこれが限界でです。

* ここまで書きかけ H29/1/21 以下 文章整理中







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