山口久吉の話
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     関東に於ける平家落人の足跡を訪ねて、



     源平争覇の時代に源氏の勢力圏であった関東の下野の国に、果たして平家の武
    将が隠れ住んだことが有っただろうか、それは無い、無い、と誰でもが考えられ
    る所である。だが、それが有ったのである、その侍の名は、筑後の守、平の貞能
    その人である。

     では、伝説で無い、史実に基づいてその足跡を訪ねて見よう。

    ★平貞能、は貞能は筑後守家貞の子、伊勢平氏に属し、特に重盛の信頼を受けた
    が、重盛亡き後は入道清盛に重んじられ、常に侍大将として活躍していた。
     平家の都落ちの直前に、源氏の尖兵が居ると聞いて、手勢五百騎を引きえて出
    馬したが、全くの風説と知って引き返した、途中行幸に出会い、急ぎ馬から飛び
    降りて重臣たち何処へ行くと問うて、初めて都落ち(福原の都落ち)する事を知ら
    された、貞能は五百騎の兵をこの一行の護衛に加え、自分は手勢と共に都に帰り
    西八条の焼け跡に一夜を過ごして、重盛卿の墓を掘って遺骨を高野山に送った後
    部下の兵達に、
    「軍を解く、各々好む所にしたがって行動せよ、余は思う所あって、暫く別れる
    所存であるが、決して案ずる事は無い。」
    と、さとして単騎いずこにか立ち去ってしまった。
     やがて重盛の妹であった妙雲尼の在所を訪ねて髪を剃ってもらい、出家の志を
    述べて永別を告げたが、尼がしきりに同行を求めるのでやむなく、老尼をつれて
    すでに新秋の風も冷たい暗夜の道を東国さして忍び出た、彼の姿は旅僧の装いで
    あり、手足にまとう法衣の袖も寒々として痛々しかった。
     こうして入道貞能が京都の都を去ったのは寿永二年(1183)七月末であった。
     その後は全く行方知れずになっていたが、壇ノ浦合戦の約二年後の文治元年七
    月の頃、突如として、幾山河を越えた関東の下野の国に宇都宮左衛門尉朝綱を訪
    れたのであった。
     二人は京都にあって相知ったぢっこんの間柄の仲であった。
     そこで貞能は出家の事情を明かし、一切を任せるから鎌倉殿にしかるべく取り
    計らってほしいと哀願した。朝綱は直ちにこの由を鎌倉に申し送り
    「すでに出家の身であり、殿の挙兵に際し平家を去って旗下に走らんとして清盛
    によって取り押さえられた事情からも、早くから平家の専横に反感を抱いた人物
    であるから、どうか恩恵をもって罪を許されたい。」
    との一文を捧げた、 鎌倉の源頼朝は、
    「今後もし貞能が叛することあらば、宇都宮朝綱の子孫を絶つ」
    という厳しい条件を付してこれを許し、一切を朝綱に委ねた、この事実に関して
    は吾妻鏡の巻四にしるされている。
     かくして貞能は宇都宮朝綱に預けられた。
     貞能は下野下向の際彼に伴って同行した妙雲尼と共に、一時高原山の釈迦が岳
    の山中にはいり、ここに草庵を結んで一時留まったが源氏は平氏の残党を探し求
    める時であったから、その難を憂い、更に山深く塩原に入り、宇都宮朝綱の庇護
    によって妙雲尼と共に一庵を結んで亡き、平家の菩提を弔う仏道三昧の生活に入
    った。

    ★ 妙雲寺、(塩原) 後日、この地に甘露山妙雲寺が創立され、妙雲尼がここに住
    して重盛公の持念仏である栴檀香木の釈尊の像を安置した。
     妙雲寺縁起によれば、本像は重盛帰仰の霊像で、本朝三釈迦同作の随一なるも
    のであるというから、置き去るに忍びず、内府遺愛の尊像として笈に納めて、下
    野の国に招来したものと伝いている。
     かくて妙雲尼は建久五年(1194)この寺で生涯を終わした。尼の墓は寺の後ろの
    丘の上に九重の多宝塔として今も祀られている。その傍らに平氏累代の墓碑もあ
    る。(私はこのお墓に三回ほどお参りしたが感無量であった。)この寺の繁栄に
    つれて、寺前も慇懃に赴き、所謂門前町として発達したから、今もその名残とし
    て門前の名でよばれている。

    ★大岩法師と安善寺(益子)尼が亡くなった後、貞能は大岩法師入道と号して、芳
    賀郡七井村(現在の益子町)に入り大平山の中腹に、安善寺を建立し文暦元年(123
    4)八十余歳で大往生をとげた。
     当時宇都宮氏は領内の益子町上大羽に隠棲し、地蔵院を菩提所とし、付近に累
    代の墓所を営み(この墓所は初代宗円から三十四代迄のお墓が整然と羅列されて
    いる。)、朝綱を祀る綱神社も鎮座された。従ってここは宇都宮氏閑居の地とな
    ったので、その丘陵続きの七井村大平に、貞能が身を寄せたのは朝綱がこの地に
    招いたようであり、安善寺は宇都宮家の家臣河原小藤次光直の協力を得て開いた
    寺だと云われている。寺の創建は建久五年(1194)と伝いられ、現在の本堂は享保
    十五年に再建されているが、寺の廊下は県内唯一の歩くとキュツツキュツツと鳴
    く特殊な工法のウグイス張りの廊下がある。(私も実際にこの廊下を二回程歩い
    て見たが何と奇妙な音がした。)安善寺には安善院室中大岩法師と記した貞能の
    位牌と墓、そして河原小藤次光直の墓もある。又、貞能の百年忌に建てられた追
    善供養の板碑には、     
    「其佛本願力聞名欲往生、正慶弐年参月九日、皆悉到彼国自致不退転」
    の、文字が残されている。

    ★史実に基づき、これらの古跡を訪ね歩き平家の落人達の、足跡を偲んで色々な
    思い出に浸ることが出来た。安善寺を訪ねたおり益子町から頂いた資料に、なお
    平貞能の墓は常陸の小松寺にもあり、重盛と重盛夫人の墓、さらに重盛の念持佛
    如意輪観音(国宝)とされるものが小松寺に伝いられている。又、宇都宮一族の
    多功氏の菩提寺である建昌寺(上三川町)も貞能の開基とされており、平家の落
    人貞能が東国の人々から崇敬されていた様子がうかがえる。
    と、記載されていたのでこれ等を訪ねる事とした。

    ★ 小松寺(茨城県城里町) 益子の安善寺から東に向きを変え茂木町から、水戸へ
    向かう城里町の道筋の右側に小松寺なる寺標が目につく、この寺標からダラダラ
    階段を上に登って行くと唐門に突き当たる、其の奥に小松寺がある。
     この寺の裏山が白雲山であり、その中腹に内大臣平の重盛公のお墓とその下側
    に重盛夫人得律禅尼の墓と貞能の墓が祀られている。
     平の貞能は、平家滅亡のとき、重盛の遺骨を高野山から収めて、重盛の夫人得
    律禅尼に従って東国に来て、常陸大掾平義幹に頼んだ。平義幹は金伊野村(現上
    入野)白雲山を貞能に与えた。貞能は重盛の遺骨を埋め、山上に寺を建て、普明
    院小松寺と名づけた。後に義幹は二子(盛昌)を僧にして住まわせた。貞能も小松
    房以典と名乗る僧になつたという。また、若海村(現玉造町)にも萬福寺という寺
    をつくり、重盛崇拝の弥陀三尊を安置し、両寺(小松寺、萬福寺)を往来して重盛
    の冥福を祈ったという。  
    今、白雲山に五輪塔があるのは重盛の遺骨を埋めた所で、その下側にに重盛夫人
    及び能の墓がある。

    ★萬福寺(茨城県玉造町芹沢)萬福寺、この寺は寺伝によれば、雷電山慈心院萬
    福寺は寿永二年(1183)源平争乱に敗れた平氏一門は西国に都落ちをした。其の
    時故小松内府重盛の遺臣平貞能は重盛の遺骨を奉じ東国に逃れ、各地を流浪した
    末、常陸国に行方次郎を頼ったのである。そして現在の玉造町若海の地に一草庵
    を結びて僧となり、阿弥陀如来を安置して没落した平氏一門及び、故重盛の冥福
    を祈って生涯を終わったという。

    ★建昌寺、(宇都宮)上三川町に見性寺がある、この寺を訪ねた時頂いた資料に
    よると、建暦二年(1212)平家の武将筑後守平貞能入道大岩法師当地に、草庵を
    構えて浄土宗建昌寺と称し暫く此の地に逗留していた。とある。
     宝治二年(1248)宇都宮頼綱五男多功岩見守多功城築城の、ついで建昌寺諸堂
    を建立寄進し多功家菩提寺と定めた、宝徳三年(1451)多功城主茨城結城安穏寺
    より源翁禅師法孫伝室存的和尚を請し、中興開山とし多功院星宮山見性寺と改称
    曹洞宗寺院となり、歴代二十六代法灯連綿として今に到ったと書いてある。
     この様に貞能の足跡が、関東の源氏の勢力圏内の各地に見られるのは一体何で
    あったらうか。

    ★結び、源氏の勢力圏であった関東の地域の人々が、平家の武将平の貞能をかく
    までも厚遇していたそもそもの理由は、一体何であったろうか。其の理由の想像
    に苦しむ所であるがこれ等を考えるとき、関東の武将宇都宮朝綱は頼朝挙兵の時
    平家に仕えていたが、帰国しょうとしたが平宗盛が許さなかった。朝綱と昵懇の
    間柄にあった貞能のとりなしで帰ることが出来たという。貞能は、
    「故入道相国専一腹心の者」
    と言われ、清盛と其の子息重盛、宗盛に仕えた武将であったから朝綱の帰国に特
    別の取り計らいを尽くしてくれたのであらう。そして帰国後朝綱は頼朝の御家人
    となったのである。だから朝綱には貞能に対して特別の恩義があったのである、
    その恩義に報いる為にも、貞能を厚遇したのではなからうか。関東一円の人々が
    貞能を厚遇したのも朝綱と同じ心根からではなかったろうか。
     貞能の足跡を訪ね、塩原の妙雲寺から益子の安善寺そして常陸の城里町の小松
    寺、玉造町の萬福寺、下野の上三川町の建昌寺等など源平争覇の時代の平家落人
    の足跡を訪ね歩き、様々な思い出に浸る事が出来た、まさに感無量の思い出であ
    る。  




                    平成二十一年一月、筆者 山 口  久 吉
















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