山口久吉の話
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     湯西川温泉 瀬戸権現の滝 と 橋立村



                                 山 口 久 吉

    ◎ 瀬戸権現の滝が消えた。

     三河沢ダム工事が完成し湛水と同時に瀬戸権現の滝がなくなった。 この滝は三
    河沢の上流悪志沢との合流点(三河沢ダムサイド)から約四百メートル程の上流に
    あり、両岸相狭まる瀬戸の二段の滝で白浜二階滝とも言われた瀬戸権現の滝。

     平成十五年五月に湛水開始と同時に、この滝は姿を消したのである。 
     上流に行くには向かって滝の左側の岩盤をよじ登って、滝の上に出る獣道があっ
    た。 滝の上には僅かばかりの平地があり、この平地を落合うすくぼ平と称した。
    それは国を相手に行政裁判を提訴した時、村の山、と主張した証拠の場所でもある。

     山で働く村人達はこの滝の上に権現様(大山祇命)を祀り山での無事息災を祈願
    した。 石の祠には祭祀した時の江戸時代の文政六未年、高手花和沢口村中、との
    陰刻がある。 この権現様を祭祀する以前に、この滝の上流地域で何かの出来事で
    もあったのだろうか、此処の神域に聳えたつ御神木の大木群、スギ、シラビ、姫小
    松、等これも裁判の証拠物件、殊にスギの大木はこの時代この地には無かったのだ、
    権現様を祀るときよそから持ってきて植えたのであろうか。 かなり古い古木であ
    る。 かってこの地に林道工事がなされた時、発破からの傷付きを防ぐため木の幹
    にコモを巻いたのだった。 今に残る貴重な資源でもある。

     この滝の上流地域一帯は、村人達が江戸時代から泊まり小屋で木杓子作りをした
    由緒ある山でもある、山での暮らしの出来事が、古文書に書残されている。

    『慶応四年オリドリ沢の入り滝沢で杓子小屋諸共雪崩に、突絞められて二人の若者
    の死亡事故。大正五年旧十二月十二日、田代山の七人の雪崩死亡事故等などなど』
    この滝の上流地域の出来事であった。

     古文書は歴史の証人である。 これらの人々は権現の滝をよじ登りそして権現様
    に手を合わせて、山での無事息災を願ったことであうにと感無量である。

     霊気溢れそうな感じのあった瀬戸権現の滝、三河沢本流を代表した名滝が無くな
    ってしまう何故か淋しい感じさいする。

    ◎たった一軒でも村、橋立村 

     湯西川から土呂部に至る間、三河沢合流点から藤花沢に入ると、程なく橋立沢が
    ある。 その上流側の平地に一軒の茶屋があった。『橋立村』という。 一軒でも
    村という、これが五ケ所集まると郷となる。湯西川郷、橋立村であった。

     古文書の記録によると、土呂部から湯畑へ三里半、小川を四十八瀬も渡り、その
    間馬で通れぬ難所二ケ所あり、二里程行きて一軒の家有り、橋立村と言う。
     酒菓子等あり湯畑に着くのが遅くなる時は、泊まる事も出来る茶屋とある。

     私はこの古文書に興味を持ち、現場を探索した。
     今の車道が出来る以前よく通い慣れた旧道を、橋立沢から少し高台に登ると、今
    宮権現様の社が祀られてある、社の前を過ぎだらだら坂を五十メートル程登ると、
    平地にでる、この平地の右側に茶屋らしい跡地を見付け木の葉をかきのけると、な
    んと土台石らしいものが出てきた。 それが間口四間奥行三間の間隔に据えられて
    あり屋敷跡と確認出来た。また囲炉裏跡の炭のかけらも見つかった。
     此処が古文書にある一軒の茶屋の跡であった。 感激の至りであり古文書の当時
    と現在を比較して見る面白味はここにある。

     この茶屋は何時の時代迄有ったのだろうか、今は林の中にやっとその原型らしき
    場所見付けられる程度のものとなってしまっていた。

     此処に祀られてある今宮権現様はは文化七年の記録によると、勝エ門、利平次、
    取持ちとあり、当時若者組の獅子舞えの奉納が旧七月十六日に行なわれていた。

     獅子歌に、『今宮様いつもさかりにうちみせて、参る堂者に限りなきもの、♪』
    と記載されている。

     現在は(今は行われていない)高手の観音様に奉納獅子の時、橋立村の今宮神社
    の方を向き歌の奉納を行なっているが、当時の行事が簡素化されても今に続いてい
    る証拠である。

     この茶屋のすぐ前道路の下側に椹の木の植林地がある、これは安政六年(1859)
    の植木取極議定証文によると、村山の内五ケ所を定め、杉、檜、椹、の内一種類を
    選び一年に十本づつを植林することと定めたもので、

      仲内村は、平沢入り、山なし平、
      川戸村は、 うつうり沢の内、関根平、
      湯畑村は、前沢、ふかへと平、
      花和高手村は、おちあいの、うす久保平、
      沢口村は、入りあいの内、はしたて平、

     と極められてあり、此処の植林地は沢口村の取極地であり、かなり古い大木がそ
    びえ立っていた。

     ★行政裁判の証拠物件(湯甲証第二号) 國を相手に行政裁判の折、ここの植林
    地が証拠となった。昭和二十五年十一月十一日 実地検証を裁判官、原告被告、証
    人立合で行なわれ、原告、村側が植林したと主張した椹の木を伐採し、その年輪を
    数えた所、九十三本あり(安政六年に二年生の幼木を植林すると、この時で丁度九
    十三年となる)双方これを認めたので、これが勝訴の要因の一つとなったと言う。

     今に残る貴重な証拠物件であり湯西川の遺産でもある。

     この地域には天然に椹の木は自生していない、僅かに明神岳の東側斜面の中腹に
    自生していたこれを山引きして来て、この地に植林したものであろうか。数えて見
    ると枯損木、伐採跡等があり今生立しているものは僅か十二本であた、今に残る貴
    重な由緒ある文化財的価値のある植林地である、これからも保護に努め後世に残し
    たいものである。


















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