山口久吉の話
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   湯西川温泉 昔の食料 稗粟とバンダイ餅



                                   山 口 久 吉

   ☆ 稗飯が主食だった

     当地は標高が高く、河岸段丘から川底が低く水利の便が悪く、又春が遅く冬が早
    く来るので、お米の栽培は不可能であった。 僅かに湯畑と高手に、少しばかりの
    田が有ったがそれは極く早生の種を播いても収穫は少なかった。 それ故当地には
    田圃が無かったのである。

     食糧は一切畑作に頼ってきた、それ故畑作で「ヒエ」を栽培して主食は稗飯だっ
    た。人家の周りは一面に稗畑で、秋の収穫には稗を刈り取って「ハデサオ」に掛け
    て乾燥し雪の降る前に、家の中に背負いこんで穂だけを切り取って、大きな「スゴ
    」に入れ蔵の中に背負い込んで重ねて貯蔵した、「ヒエ」は穂の儘だと長期の保存
    がきく、脱穀する時は天気の好い日に蔵から出し、庭一面に「ムシロ」を敷き天日
    乾燥して「グルリ棒」で脱穀して、各集落ごとにある水車で精米した。 この水車
    を「クルマ」と呼び三日一回りで「クルマ番帳」で回り順に精米した。 当地の精
    米は蒸さないで白撞きで水を打ちながら精米した、だから真っ白な粘気のある稗飯
    であった。 稗粥などは粘気があってとても美味しかった。 稗、といえば今では
    小鳥の餌を連想するであろうが、当時としては大事な食糧であった。

    その他の雑穀

     その他、粟、大豆、ソバ、麦、ジャガ芋トウモロコシ、南瓜等の雑穀、野菜類も
    栽培した大豆は麦畑の株間に「ズックシ棒」で一粒づつ手作業で、穴をあけその中
    へ豆を入れて植えた。播くのでなくて「豆植え」と言った。この「ズックシ棒」は
    村木に指定の一位の木の枝でつくった。 大豆は村の重要な作物であり、江戸時代
    の年貢皆済目録にも大豆にて納めと記されている。 又酸性土壌の痩地にはソバが
    作られた、ソバは石ウスで挽き絹篩でふるって、ソバ粉を作りソバを打って食べた。
    又ソバ粉には色々な食べ方もあった。

    山の幸

     山の幸は、各集落ごとに公平に享受出来る様に、色々の取り決めがあった。
    先に述べたように、最寄山の議定で各集落毎に、区域を決めて利用してきた。 そ
    して山の口明け、の取り決めである。(註、山の物が自由に採取できる、いわば解
    禁日の取り決め)

     明治三十五年の「山の口明け決定証」によると、

      九月二十八日 二十九日、栃ヒロイ、(註、食用のための栃の実ヒロイ)
      九月三十日、クゾ萩とり、 十一月十四日、キヤ刈り、

     と日程を区長、坪総代(江戸時代は名主、組頭、百姓代)で定めた記録がある。

     栃ヒロイ、は各集落毎に定められた日に、集まって決められた最寄山に入って、
    栃の実を拾った。 拾った栃の実は乾燥して貯蔵し置き、栃モチ、およびソバ粉を
    入れて「栃ッカイ」等を作って食べた。 作る時は乾燥した栃の実を浸して柔らか
    くして、皮ムキ器で皮をむき、木灰と熱湯で苦味を取り餡状にしてから、餅と混ぜ
    て栃餅や蕎麦粉と混ぜて栃ッカイ等に作って食べた。 栃の実は、生のものをつぶ
    して空缶に入れ、麦の穂の茎をストロウ代わりにして良くシャボン玉にして吹き飛
    ばして子供達が遊んだ。

     又 、栗の実も拾ってムシロで良く乾燥して貯蔵して置き間食によく食べた。
    その他山林に自生する山ブドウ、アケビ、サナヅラ、山の自然食には事欠かなかっ
    た。 山菜類は春から季節毎に蕗ノトウ、コゴミ、ウド、ウルイ、フキ、ワラビ、
    ゼンマイ、イラ、タラノメ。 等など自給自足に良く利用出来た。 これらの物は
    元禄、天保、時代の飢饉の時にも、大変役たった事であろう、当時の古文書の記録
    にも残されている。

                              ふるさと探訪湯西川 F




   ☆ バンダイ餅盤台餅

     バンダイ餅とは、ウルチ米のご飯を厚い板の台盤台の上で斧のみねで搗いたので
    バンダイ餅の名が付いたと言う、いつの間にかウルチ米の餅を総称してバンダイ餅
    と云うようになった餅米で搗いたのが一般的な餅である。 

     バンダイ餅はお盆の時八朔十月十日かわびたれ十二月一日等に良く作って食べた
    最も代表的なものが、木杓子つくりの山小屋でのバンダイ餅で、小屋上りや小屋下
    がりには必ずバンダイ餅を作って食べた。 山小屋で搗くバンダイ餅は横臼で、そ
    れは杓子木のグルを横にして斧で穴を掘り作った物で、安定感があり山小屋ではも
    ってこいの臼だった。 杵は手頃の丸太で作った物であり、この臼と杵がバンダイ
    餅作りの道具で、餅はウルチ米で一升で二十五個が作られ小屋上りのときはこの餅
    を作って鍋の蓋にのせて、道具棚に載せて山の神様にお供えをし、山での無事息災
    を祈願した。

     食は仕事が食べると云われたこの時代に、餅の数を競って食べた、ハイ一番ダイ
    ハイ二番ダイ、と云えながら次から次へと随分食べたものであり、私も九個位は食
    べた事もあったが、多く食べる人は十二個位食べたという。 又食べる競争に、ブ
    ンヌキ餅と云うのがあったが、それは日光メンパの曲げワッパの弁当に餅を一杯詰
    めて、鍋の蓋にブンヌイて食べるもので、今日は弁当のフタにするかソコにするか
    と餅の量を決め、フタは六合入るし、ソコは五合入った。 杓子小屋の全員が一ヶ
    所に集まってこのブンヌキ餅で食べ競争をしたものだった。 私もこのブンヌキ餅
    に挑戦した事があったが、ソコでも皆食べられなかった。 又、小屋下がりのバン
    ダイ餅は家族へのお土産でもあり、小屋下がりを待っていた家族は無事に帰ってき
    た事と、お土産のバンダイ餅を喜んで食べた。

     山小屋で食べるバンダイ餅は岩魚ッコが一番で、餅飯の鍋を火に掛けて飯が煮え
    るまでの少しの間、前の小川で岩魚を釣った。 釣り竿は手頃の細い木で枝を払っ
    て作った物で魚を釣り上げると、調子が合わずに後山の木の枝に引っかかってピク
    ピクしているので、木登りをして魚を捕った。 五六匹も釣ってくれば餅の汁のコ
    に間にあい、岩魚は骨を抜き肉を鍋ですりつぶして、味噌汁を作ってバンダイ餅を
    食べたもので山小屋での最高の味のある食事だった。

     家でも何かの祝い事や特別のイワレのある日にはバンダイ餅をよく作って食べた
    一般的な家庭での餅のコは、サケの缶詰で造った汁か、ケンチン汁が良くバンダイ
    餅と相性がよくおいしかった。 湯西川ではバンダイ餅は食生活には欠かせない存
    在だった、思いだしてもたべたくなる。


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