山口久吉の話
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湯西川温泉 の 歌舞伎芝居と祝い歌



                               山 口 久 吉

  謡、(祝い歌)

   湯西川では目出度い、ご祝言(結婚式)や祝い事には古くから謡が歌われていた
  古書の中からこの様な謡を書いた一冊の本が出てきた。これは小謡百ニ十番で観
  世左近太夫のもので、寛政十年再版で百ニ十の歌ががしるされていた。
  では、それらを紹介しょう。まず。

   初、高 砂、 ところは高さごの をのえのまつもとしふりておいのなみもよ
          りくるや、この下かげのおちばかくなるまでいのちながらいて
          なおいつまでかいきのまつ。それもひさしきめいしょかな、そ
          れもひさしきめいしょかな。

   ニ、同、   四かい波しづかにて、国もおさまる時つかぜえだをならさぬみ
          よなれや。あいに相生の松こそめでたかりけれ。げにやあふぎ
          てもこともおろかやかかるよに。すめるたみとてゆたかなる君
          のめぐみぞ有がたき、君のめみぞ有がたき。

   三、つるかめ、にはのいさごは金銀の玉をつらねてしきたいのいをいのにしき
          やるりのとぼそじゃこのゆきげためのふのはしいけのみぎはの
          つるかめはほうらいさんもよそならず君のめぐみぞ有がたき、
          君のめぐみぞ有がたき。

   十一、玉の井、ながきいのちをくみてしる。こころのそこもくもりなき。月の
          かつらのひかりそふえだをつらねてもろともに。あさゆふなる
          る玉の井のふかきちぎりはたのもしや。ふかきちぎりはたのも
          しや。

      以上が湯西川でよくうたわれた謡であり、そのほかは省略する。


   ★謡い初め、

   旧正月ニ日晩に若者組によって謡初め、が昔から行われていた、このときの曲
  目は、高砂、と四海波、つるかめ、で村のご祝言に備えての準備練習でもあり、
  謡初めのときの、お酒とえびわかさぎ、は村の経費で賄われていた。村にご祝言
  があり頼まれれば三々九度の謡をやるしきたりになっていた。だから練習も厳粛
  であり、若者全員が習得することが望まれていた。畳にひざまずき両手を前にハ
  ノ字について頭を下げ、ところはたかさごのオー、で頭を上げながら両手を腰に
  かまえて頭ふり歌い上げるこの謡は厳粛そのものであった、謡の続きは、松坂で
  座を賑やかにしていた。


   ★ 結婚初夜床入り、の儀式(ザザンザア)

   三々九度の儀式も済み新郎新婦の床入りとなると、若者組二名がお膳に大杯に
  なみなみとお酒をつぎ、新郎新婦の床前に、お祝を申上げる。と言って進む、正
  座した若者は玉の井の謡を歌い、ながきいのちをくみてしる、心のそこも曇りな
  き月の桂の光りそう枝を、つらねてもろともに朝夕なるるたまのえの深きちぎり
  ぞたのもしやザザンザア、、、、、と大杯のお酒を新郎新婦にぶっ掛ける、新郎
  新婦はかねて用意の毛布をさっと上げて酒をよける、初めての共同作業、投げか
  けたお酒を避けて良しまた浴びて良し、後は目出度し目出度し新婚床入りの儀式
  まずは目出度し、こんな、行事があったが今は知る人もなし、ある人からの聞き
  覚えていた話である。
          祝え樽、   謡の本



  歌舞伎芝居

   親の歳と太閤記十段目を知らぬは馬鹿だァ、と母親に年令を尋ねた時言われた
  一言が今だに耳の底から消えない。 それほど湯西川では歌舞伎芝居が流行って
  いた。

   山にこだまする義太夫節、悪志沢の上流ツバミユウ沢の中腹で泊り小屋で杓子
  彫りをしていた時、沢口の年寄の朝のお勤めはトイレで語る義太夫の一節だった
  。静かな緑の山々にこだまして響き亘るダミ声の義太夫節の一節、何とも表現し
  がたいその声色、居並ぶ人々がウットリとその声音色に聞き惚れていた。
   そんな一こまの出来事も今は遠い昔の思出になってしまった。湯西川では昔か
  ら歌舞伎芝居が村人の暮らしと深いかかわりにあった。どこの家でも独特の横長
  で変体かなの勘亭流という書体の義太夫本の二三冊は所蔵されていた。

   私は県史編纂事業のため、栗山の古文書の史料を調査したがその中にこれらの
  義太夫本は珍しくなかった。ことに地芝居を行なった若者組の倉庫には義太夫本
  や役者の口上書きなどが山積されていた。 又芝居の衣装や鬘(かつら)や諸道
  具等も所蔵されていたが或る時期にその姿を消してしまっていた。

   地芝居が出来なくなってからは、芝居の好きな当地では興行芝居を見るように
  なり、記憶にあるのが日光の守田屋の興行芝居であった。普通は三晩位見、これ
  の主催は若者組であった芝居の題名も、太閤記十段目や鎌倉三代記、一の谷嫩軍
  記、安達が原、忠臣蔵等など村人の知っているものばかりで、特に安達が原は涙
  雨が降るということで最後の晩にしてもらっていた。

   この興行芝居は慈光寺で行なわれ本堂前の廊下が舞台となり、柱を建てて板張
  の花道を作ったものでなかなかの豪華な舞台であった。村人はお寺の前にゴザを
  敷き軽い食物持参で、感激のあまり涙を流しながら一晩中芝居を見物したのであ
  った。演目のクライマックスには涙と拍手が夜空に鳴り渡って、そんなに歌舞伎
  が好きだった、だから......親の年令と太閤記十段目を知らぬは馬鹿だア
  ...と言われたのも頷ける、一間に入りにけり残る蕾の花一つ水揚げかねし風
  情にて、思案なげ首しおるるばかりようよう涙押しとどめ.....
  これは絵本太閤記十段目、尼ケ崎の段の打出しの一節であるが、これを知らない
  のは馬鹿だという、それだけに村人達の間に歌舞伎芝居がしみわたっていたので
  ある。


  ★髪は女の命

   芝居の鬘(かつら)を作るため十七歳の女の髪の毛が切られたという、その時
  彼女は七日七夜泣き通したという、立てば髪の毛が畳に届いたほど長かったとい
  う、この髪の毛で作った鬘が当時では一番良い鬘だったと言う事である。髪は本
  当に女の命である。この時代に他に娯楽施設の無かった湯西川では歌舞伎芝居を
  とおして歴史や物語りの断片にも触れることが出来た。 これが年寄たちの最高
  の楽しみだったのかも知れない。




                        ふるさと探訪 湯西川 24
                        ふるさと探訪 湯西川 13


  追、 安達が原とは奥州安達原 当時の湯西川郷の人達は、どんな想いでこの
    芝居を観ていたのであろう。 
     今も一つ山向こうの桧枝岐歌舞伎では「奥州安達原」を興行している。



資料、
  
  義太夫の本
  義太夫の本










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