山口久吉の話
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    湯西川温泉 昔の外部交流、峠の山道






                                  山 口 久 吉
    峠の山道

     四面山に囲まれた昔の湯西川村では、外部との交流は峠の山道を越えるしかなか
    った。 暮らしに密接な関係のある経済、文化、情報等の交流等はすべて、峠の山
    道を経由したものであった。 西山郷湯西川村と言われた時代から、外部との交流
    は重要な事柄であり、同じ村内でも峠を越えて行き来していた。  口ケ坂峠(土
    呂部峠)や岩代國との交流には、田代山道峠、枯木道峠、鱒沢道峠、湯坂道峠(猿
    鼻峠)と四ケ所の峠道があり、会津文化と経済交流に大きな役割を果たして来た。
    川沿えの渓谷道は危険が多かったが、峠の山道は登り下りの労苦だけで歩行には安
    全であった。

     ではそれらの峠道を尋ねて見よう。



    口ケ坂峠(土呂部峠)

     湯西川を上流にさかのぼり、三河沢落合から左の橋立沢へ入り、橋立村の茶屋を
    過ぎ大クドレ落合から川を渡り、石橋沢を過ぎ左折してマグラリュウ沢の窟の前を
    通り、程なく急坂を登ればスリバチッターへ出る。 そしてだらだら坂を登り詰め
    ると、程なく土呂部峠の頂上に出る。(以前は峠の沢を登っていたらしく道跡も残
    っている。) それから左折して土呂部側の沢を降って行くと、程なく土呂部村に
    出る。

参考地図1


    (註)マグラリュウ、湯西川には三ヶ所のリュウがある。 その一つがこの土呂部
    のマグラリュウで、二つ目がホソドウのコジキリュウ、三つ目が鱒沢道峠のヤマガ
    リュウ、これを湯西川の三大リュウと言った。 道中夕立雨などに会ったときは、
    このリュウの下に逃げ込み雨宿りをした。 又夜道の時は、焚火をして野宿も出来
    た便利な存在だった。



    田代山道峠

     土呂部峠から峰筋を北上しして、オリドリ峰から横手道を岩代國舘岩村境のドン
    ビンガター(田代山道峠)に出る。 此処から下ると水引村から湯の花温泉に出る
    。水引の奥に製材工場があり、ここで製材された製品を今市に運びだすため、田代
    山新道が開通した。 土呂部の人達が馬で製品を運びだした道と言われている。
     この峠の道筋にはイノガーターの鳥場、クズウの鳥場、ゼンマイ平ら鳥場、クマ
    ユウ鳥場、オリドリ鳥場、と捕鳥場(トヤバ)が続いていた。 秋のシーズンには
    さぞ賑やかな事だったろう、山で暮らした村の人達には密接な関係のある山であっ
    た。又、木杓子つくりにも関係のある山々であり、大正五年旧十二月に泊り小屋で
    、出稼ぎ中の人達がこの峠から程近い急斜面で、大吹雪に逢い表層雪崩に巻き込ま
    れ、七人が死亡するという大惨事があったのも、この峠道であった。



    枯木道峠

     この道は、高手と花和から北側の山道を登り、山の神の峰に出て峰筋を北上し、
    石休道から楢の木休道、そして悪志沢と木の沢の峰筋に出て、この峰を北上して枯
    木山の麓を通り、岩代國湯の花温泉に出る峠道であり、私の伯母が若いときこの山
    道を通って、湯の花から里帰りした峠道でもあった。 又、元禄十二年の困窮帳に
    は、この枯木道、往古より塩止めの道との記録があり、何故に塩の運搬が留められ
    ていたのか想像に苦しむ。



    安ヶ森 鱒沢道峠

     この峠道は、福島県の舘岩村に通じる峠道で、ウツルギ沢を遡ってユナゴ沢へ入
    り、だらだら坂を登り、ヤマガリュウの窟前で一休みして、更に登って右からの、
    小沢の落合の左曽根の急坂を登り、大畑沢の曽根を北上し芹沢境に出て、更に北上
    して安ガ森山の峰続きの、鱒沢峠に出て、此処から石南花と黐(とりもち)の木の
    密生している急坂を峠沢に降りて、鱒沢渓谷沿いに石の宮から戸中部落に出る峠道
    で、舘岩村との交流に古くから利用されていた。

     鱒沢流域は共有地の山林で、椈(ぶな)の木の原生林が多かったので、湯西川の
    杓子作りは、一時期多くの人々が泊り小屋で同地のブドウ沢、ツチグラ沢、峠沢な
    どに入って杓子作りに賑わっていた。 舘岩の人達は、木地屋が多く栃の大木を切
    り倒して、お椀の材料を取っていた。


    黐(トリモチ)

     私が黐(トリモチ)作りを知ったのは同地であった。 湯の花の伯父達が六、七
    月の頃この山に入りトリモチの皮を剥ぎ五、六十粁を背負って、私達の杓子小屋に
    立ち寄ったことが度々あったが、このトリモチの皮は土倉落合に池を作り此処に浸
    して皮を腐らせて、臼でついて、ねはねば状にして、流れ水で伸ばしながら粗皮を
    流して、トリモチを作って居たのを時々珍しく眺めて居たことがあった。 伯父か
    らはそのトリモチを、缶詰の空缶に貰って鳥さし等に使っていた。 そんな思い出
    の有るこの木を、庭の片隅に植えて観賞している。

     黐...この文字を草書体で書くと、なんと読むことが出来ない。 古文状でこ
        の字に会った時、随分と苦労をした事があった。



    湯坂峠(猿鼻峠)

     この峠は、湯西川の平沢を遡って、一山越えて芹沢から三依を経て会津へ通じる
    峠道で、経済交流の重要な道筋でもあった。

     生活文化、特に東北文化はこの峠を越えて湯西川に入ってきた。 湯の守り神と
    して勧請された湯殿山信仰や、木杓子作りの刃物道具類(鉈等の銘 は重房)、酒
    の京屋(樽の銘に京屋、とあり中身は末広)、中荒井、衣類の会津絣り、や 会津
    縞、等の生活文化はこの峠を越えて伝承されたものであった。 

    長い年月にわたり行き来きしたこの峠道、それなりに色々な出来事があったろう。

     戦国時代近隣の田島城主、長沼盛秀は天正年間に、上三依の鶴ケ淵城を足掛かり
    に、その領域は五十里、芹沢、迄席巻したが湯坂峠は越えて来なかった。いわばこ
    の峠によって湯西川は無事平穏であった。 それなりに多くの人々によって利用さ
    れてきた峠道、この峠の頂上に道行く人馬の通行、安全を祈願して祀られている石
    仏、施主は伴久左衛門、阿久津勘四郎、天保十三年十月の陰刻があり、この時代に
    祀られたもので、石像の高さ台座共に七十二糎で珍しい、三面六臂の馬頭観音であ
    る。


    湯坂峠のハジキ酒

     湯西川で呑む酒は、殆どが会津から購入した。 酒は会津から中三依の会社荷扱
    所に着くその酒を背負いに湯坂峠を越えて、三依迄女人足が出掛けて行く、そして
    二斗樽の酒を背負って来ると、丁度湯坂峠で昼飯となる。 峠の頂上は絶好の休場
    である、女達は背負って来た酒樽に、適当の木を切って、ハジキ(梃子)を、かう
    樽板のスキマからメンパの蓋で、酒を受けて、ゴクツ、ゴクツ、飲んで昼飯を食べ
    酒の勢いで峠の坂道を一気に下って、無事に湯西川に到着...村人達は誰言うと
    なくこの酒を、湯坂峠のハジキ酒と言った。

     こんな時代の変遷を知るか知らえでか、馬頭観音は峠の頂上に建っている、
         これからも車の交通安全を守護し続けて欲しいものである。










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