山口久吉の話
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   湯西川温泉と戊辰戦争





                                  
山口 久吉



  湯西川から日光にでる道筋に大笹峠からの霧降有料道路がある。此処の名所が六方
 沢橋である。橋の上で車を止めて下を覗き見ると、なんと眼が眩むような千尋の谷、
 橋の高さが139m、長さが300m、 その谷底を見つめると脳裏をかすめ想いを
 走らすのが、湯西川村の猟師達(鉄砲隊)が慶応四年の春、戊辰戦争の真っ只中、旧
 幕府軍、大鳥圭介等と共に石を枕に一夜をあかした史実である。

  徳川慶喜が、大政奉還して間もない慶応四年、日光御神領であった湯西川村は日光
 奉行からの御触により鉄砲所持の者罷り出るべく由、仰せ付けられ山々の杓子作り小
 屋に飛脚を飛ばし軒対残らず小屋下がり、
 
 旧二月十五日 二拾三人日光表に出立し日光の配備につき同十八日に帰宅した。 
        それより小山、古河、 宇都宮の合戦あり、

 旧四月二十日 湯西川鉄砲隊六十二人残らず出動し、翌二十一日日光着、延敬坊にて
        賄えにかかり、湯西川鉄砲隊三十人繰りだす。 松原町砦に十五人、
        下馬砦に 十五人、二十三日朝まで、二十三日は下繰へ十人、向川原
        へ十人、夜回り十人づつ四度 二十四日、二十五日、堅め同じく、
        夜回り四度。

 同月二十六日 湯西川村方へ長吉と与惣右エ門が状況報せに出向く、

 同月二十七日 怪我人、籠、等の運搬使役に五十人、
                      大鳥圭介の退却は六方越えであった。

  八里余りの女峰山の裾をめぐる危険な山道であった。古刹、律院の前からシギ沢西
 側のダラダラ坂道を経て霧降滝の上に出、標高一.二00メ−トルの大山を越え、千
 仞の谷へ藤つるや木の枝につかまりながら六方沢に降りた旧幕兵は、崩れるように谷
 底に倒れた。敵の追跡を逃れたという安心感と、精根尽きたという絶望感がからみあ
 って、谷底の石を枕に死者のように臥せった。夜露は頬を濡らしたが起き上がる者も
 いない。 

  夜が明けた、鳥の声に目ざめた大鳥はあたりの絶景に驚いた、指呼の間に迫る丸山
 の絶壁と雪のように白いツツジや桃色のヤシオツツジが、谷の周囲を埋め尽くしてい
 た、この景観を桃源郷と自著に書いた大鳥は、即座に、次の詩を詠じた。


  深山日暮宿無家
  枕石三軍臥白砂
  暁鳥一声天正霽
  千渓雪白野州花
  重巒道険細如糸
  暗夜攀来兵疲悉



   深山日暮れて宿るに家なし 石を枕に三軍白砂に臥す
   暁鳥一声天まさに晴れる 千渓雪白なり野州花
   重巒道は険しく細きこと糸の如し 暗夜攀じ来たって兵悉く疲る(原文は漢文)

  註、この詩は六方沢橋のたもとに、(旧)今市市の説明板として建てられているの
  で通りがけに車を止めてご覧になってはいかがでしょうか。


  しばし、この景観に息を呑んだ大鳥もやがて「発進」の命令を下した。 携行食料
 のない大鳥軍は、一刻も早く六方沢の深山渓谷から抜け出して、人家のある栗山村に
 辿り付かなければならない。 谷の北側にある磁石岩のところから大笹高原に這い上
 がった。 背丈もある熊笹を掻き分けながら笹小屋の峠の茶屋にたどりつき、主人を
 脅かして食料を強奪したが、水と梅干沢庵しかなかった。

  大笹峠からやっとの思いで麓の日陰村に駆け込んだが、何処にも食料は無かった。
 当時この村は、凶作つづきで郷蔵に蓄えておいた非常用の稗も放出してしまった。
 川水で飢えを凌いだ大鳥軍は、鬼怒川対岸の日向村に入って、名主の家に辿りつき若
 干の食料をもらって、やっと生気を取り戻した。 竜蔵寺にはいった大鳥軍は、その
 後葛老峠の峻険を越え、湯西川べりの西川村上野に出て、川を渡り会津領の五十里宿
 にはいった。 湯西川村の鉄砲隊は、ここで大鳥軍と別れ賃金を弐拾五両を受け取り
 無事に帰村した。

 ☆ 大鳥軍日光落ちの劇的な六方沢渓谷には現在は、雄大な橋が架けられその橋の下
 には、山ひだの間に当時の六方道が、とぎれとぎれにかいま見ることができる。



 ★ それからの湯西川村では?...

  閏六月に入り、八日に会津役人湯西川に来たり、郷中集まり官軍襲来時の対策を話
 し合った。 翌日には十七才より六十才迄の男の人、郷中集まり三河沢落合の下の平
 地、古勇の前に、官軍襲来に備いての番兵小屋造りが行われた。


 ★ 番兵小屋と胸壁

  同十日には、この番兵小屋に十五人が泊まり初め、それは四晩泊まり五日目に交替
 をした。 七月十日には、入合間川に人足十人、足前(あしんまえ)九十三人が出て
 陣地胸壁作りをしたがこの時、会津役人中川安五郎勢二十人が来て番兵小屋と胸壁(
 陣地)作りをともに行なった。


 ★ 湯西川村では、土呂部峠へ四ケ所の胸壁を築き、官軍襲来に備いて十人一組で警
 備についていた、この組を一番組、二番組、と称し、古勇の前の番兵小屋に泊込みで
 此処から峠の、胸壁陣地へ番兵として警備についていた。

  又、八月十一日には野門の富士見峠に、番兵として四十人が繰出して警備に当たり
 翌日に帰村した。

  八月十三日、この日会津、中川安五郎勢、野門より引払って会津に帰った。
 これにより湯西川村でも、土呂部峠の陣地と古勇の前、の番兵小屋の番兵も引き払っ
 た。だが旧幕府軍引き取るとき、民家を焼払って立退くとの風聞あるため湯西川村で
 は家財を、取り片付け後の山林へ小屋がけして隠す騒ぎとなり、郷中が大騒ぎとなっ
 た。

  二十四日日光表より役所官軍勢、会津征伐に出陣するとの風聞あり、その勢力は強
 いとのことで、何としても戦火からの難を逃れたいと思い、家の取り片付けをしたと
 言う。

  二十五日、官軍勢押し寄せるとの沙汰を聞き、郷内村役人が民家の焼き払いをしな
 いように嘆願に願い出たが、西川への人足役を仰せ付けられ、これに出る事になり、
 ようよう、あんどの思いなし候也、とあり湯西川村が戦火を免れ安堵した。

                               との記録がある。


  それから会津若松城の攻撃に向かう官軍勢は、

    五十里通り      二千人鍋島勢
    西川通り       八百人芸州勢
    川俣より湯西川通り  二百人芸州勢

  等々の通行があり、戊辰戦争に揺れ動いた湯西川村が、もとの平穏の村に戻るのに
 はかなりの日数がかかった事であったろうと想像する。
  又、この時節非常に食料に乏しかったので、御蔵や郷蔵から稗籾等を借穀してこれ
 を計り分けて凌いでいたことが窺われる。




 ★ 湯西川の鉄砲隊☆☆☆ あの時から一三五年が過ぎた今・・忘れ去られた。戊辰
  の動乱の事実を残された僅かばかりの文書により、その史実を纏めて見ました。
   古文書は歴史の証人である。 この一語が私の歴史観を大きく左右している事実
  に私自身納得している心算である。 この記録は、湯西川に残る古文書と田辺昇吉
  著の北関東戊辰戦争を参考にさせて頂いた。












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