山口久吉の話
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   湯西川温泉の事件簿A
     田代山の雪崩事故、大吹雪雪崩に遭い七名凍死



                                      山口 久吉


   湯西川村では、男の仕事は昔から木杓子作りであった。

   大正六年一月、この時も福島県館岩村の田代山に泊り小屋で、木杓子作りに出稼ぎ中であ
  ったが、その中の山田家の家族に死人あり。

   これを知らせるべく山口氏の四名が、四日午前湯西川を出発し、吹雪の中を無事に田代山
  の杓子小屋に到着しその旨を知らる。

   一泊の上翌五日午前六時頃同所より、山田氏と出稼ぎ中の都合八人が、吹雪のなか湯西川
  に向け出発。 途中田代山から三里の積雪八九尺の三河沢の急斜面地点に差しかかりし際、
  突然突風と共に三 四尺もある雪の大波の大吹雪に襲われ、見る見る八名はこの吹雪に巻き
  込まれ、吹き転がされ雪に体を埋められ、三十余尺の雪崩と共に落下。 辛うじて田代山に
  引き返した山口平六を除き七名のものは、数十尺の谷間に突き落とされ圧死せるものの如く

   田代山からの急報に接し湯西川字民の驚き一方ならず。
   村長は役場に村民を召集するの大騒ぎとなり、湯西川字民一同は、六日早朝各々食 糧を
  携え現場に向け出発し、急報に接した外山日光署長は高山警部、福田巡査とともに現場に向
  け出発し、湯西川字民の一行に加わり三河沢に至り極力捜索に努むれども、八九尺もある雪
  の中何らの手がかり無く、現場より湯西川に達するには、輪カンジキをはき八九時間も要す
  るため、急使に応ずる人も無く、捜索隊の安否、現場の模様など一切不明。

   吹雪遭難者中の山口平六は、辛うじて田代山に引返したため一命は取り止めたが、当時の
  ショックにより言葉を発する事も出来なかったが、同じく出稼ぎ中の人たちの手厚い手当て
  を受け、漸く元気を取り戻し、気丈の平六はさらに勇気を出し同僚四五名と共に、現場に至
  り付近を捜索し、二名の遺体を発見する、が積雪八九尺にして吹雪は、尺余の波となりて襲
  いくるため危険を感じ、現場を引き上げる。

   吹雪は尚止まず土呂部、湯西川にて積雪五尺余に達しつつあり、字民五十余名の捜索隊は
  八日午後に至まで引き続き捜索に努めたが手がかり無く、吹雪は愈々猛烈に雪を吹き飛ばし
  進退きはまり、怨みを残して一先ず引き上げたり。

   栗山一帯における、連日の吹雪は九日未明に至り、漸くやみ晴れたり、前夜字民は一睡も
  取らず、今朝更に二手に分かれ五人の遺体を捜索すべく、別働隊を組織し深谷の三河沢一帯
  に亘り、一大捜索を開始することとなりたるも、捜索隊は更に一人の遺体を発掘したるをも
  って、残り四名の遺体は千尋の谷間にありて付近の雪崩数十尺に達しており、引き続き田代
  山よりは、出稼中の阿部友次ほか十数名、館岩村水引地方の村民数十名応援として現場に出
  張、遺体発見に努めつつあるを以て、九日中に発見せらるべく検視の係官も一行に加わりお
  れば七名の遺体は、それぞれ橇により帰村せらるべく。


   以上が九日午後八時特派員の報告であった。


   この雪崩事故の時間に菩提寺である慈光寺の本堂では、ドドドドーと大きな雪崩の音が聞
  こえたという。
 

   以上が下野新聞、大正六年一月八日から同十二日迄の、特派員記事を簡略にまとめたもの
  である。

   このきっかけは日本における冬の雪崩事故を調査している、或る方の問い合わせによって
  調査し、慈光寺の過去帳を拝見し、七名の同日の戒名も確認したものである。 但し過去帳
  は旧暦の日付けだったので、新聞の日付けと相違がありました。
 
   山に入る方はくれぐれも吹雪、表層雪崩等に、充分気を付けて頂きたいと思います。

   田代山遭難者のご冥福を心からお祈りします。  
                        合掌、山口 久吉  識す












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