山口久吉の話
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  湯西川温泉、観光の起爆剤温泉の温泉旅館の始まり



                                山 口 久 吉


    壬生藩士の難病治療の記録

     寛政元年(1789)壬生の藩士が、吹出物の難病治療のため、往復三十日のお
    暇を頂き、湯西川の温泉に湯治にきた時の記録によると。

      一、壬生出立鉢石宿に泊り 以下略す、
      一、土呂部より湯元へ三里半小川度々渡る、四十八瀬渡ると云う、此間
       峠難所有り馬上成らざる所二ケ所有り、二里程行て一ツ家有り橋立村
       と云う。酒菓子等有り湯元へ着き遅き時は止宿も相成る茶ヤ也、夫よ
       り湯元へ余程行き詰め、高手村と云う有り家数十軒程も、見ゆ又五六
       丁も行きて、かなわ村と云所に家数同断有り湯元へ行き詰め、川口村
       是れも家数五六軒有り程なく湯元也。
                  註、(かなわ村は花輪村で川口村は沢口村)

     道中筋の書抜きに記されているとおり。大笹峠を越えて黒部に出、そして土呂
    部峠を越えて湯西川に来た。 もう一つのコースは、日光から霧降六方沢を越え
    て、大笹峠に出るコース、これが主要街道であった。 又湯西川の、人達がお伊
    勢詣りに行く行程の記録にも、この道筋が記されている。今の鬼怒川から川治へ
    の道路は大へつり、と云う関東ヤバケイの難所で後世に出来た道路であった。


    昔の湯西川温泉の風景

     さて、湯西川温泉であるが、これは太古の昔から、川の両岸の岩の裂目から渾
    々と湧きだしていた。 まさに大自然の妙であった。 村人達はこれを神の思召
    しとし、湯の守り神に湯殿山大権現をこの地に勧請し、毎年欠かさずお祭りを行
    なってきた。

     湧き出る霊泉は厚い松板で浴槽をつくり、その上に湯小屋を建て夜はアンドン
    に灯油を灯して入湯していた。 熱い時は小石を並べ川水を浴槽に流し込み、温
    度の調節をはかった。 勿論男女混浴で、たまには飛び込んだ蛙や河鹿と混浴す
    る事もあった。

     川の両岸に川原湯、薬研湯、薬師湯、(薬師堂の前にあったので薬師湯、後に
    御所湯と云った)藤倉湯、とそれぞれ効能の違った四ツのお湯があった。 川原
    湯は体が非常に温まり婦人病、痔疾等に良く効き、村人でこのお湯に度々入浴し
    ていると、奴は川原湯に入っているから又痔病が出たな? 等と話題に上る程よ
    く効いた。 又薬研湯は、神経痛、胃腸病、外傷性疾患、特に火傷や切傷に良く
    効き、火傷は目に見えて良くなるのがわかった。

     川のせせらぎや河鹿の声、そんな情緒に誘われて若いカップルや長患いの老人
    達の湯治客が人目をひいた。伴久、湯本屋、清水屋と、三軒の旅館から下駄ばき
    の湯治客は、川端のお湯に代わる代わる入浴していた。 今にして思いば本当に
    ひなびた湯治場だった。


    公衆衛生道徳取り締まり

     一見のどかな温泉場にも争いはあった。

     それは明和年度(1764〜1772)の温泉出入りである村人達の争いに、江戸御納
    戸役の高野将監と奥村玄蕃の両名が検分した結果、これを取上げ当時の名主であ
    った伊平次に湯守を仰付けられた。 但しこれには条件があった、それは湯入り
    人高を改め湯銭を上納せよ。とのきつい申し渡しであった。 そして九ケ条のご
    定も申渡され、入湯者の温泉利用が規制された。

     ご定の内容は次の通りである。

                      記

      一、入湯壱廻り十日迄同出入十二日十三日より十五日迄壱廻り半、十六日よ
        り弐廻り、

      一、湯場小屋廻りおとし置もの取り間敷き事、

      一、湯堂者並び村の者手足を洗い入湯すべき事

      一、湯舟の内にてたんはなをかみ申し間敷事、

      一、湯屋の内にて横寝等並湯舟に腰を掛け申し間敷事

      一、湯屋の内にて猥りにさわぐべからざる事、

      一、湯堂者入湯の時節湯屋の内にて、せんたく等並かみあらひ申し間敷事、

      一、月水(月経)の女人湯に入り申す間敷事、

      一、壱人者入湯有之候得共慥成請人無之候得バ宿無御座事、

             右之条可被相心得者也
               明和五子年七月
                 江戸御納戸 奥村玄蕃様
                 同元御納戸 高野将監様 
                         湯守伊平治方へ  申渡置者也、

     このご定は高札として、温泉大権現神社前に建てられ、入湯者の公衆衛生道徳
    を厳しく取り締まった。 名主は伊平治から久左衛門、伊五右ヱ門、久之丞と代
    わった。

     明和、安政の時代にかけて、湯堂者は堂者小屋に泊り自炊賄いをした、これが
    今の温泉旅館の始まりである。

    湯泉神社

     湯泉神社はご祭神大己貴命と少彦名命を祀る社で、湯の守り神として信仰が厚
    かったが、度重なる火災によって現在は更地となっている。かってはこの地に湯
    泉神社と薬師堂が並んで祭祀されており、湯治者の信仰も厚かった。湯泉神社は
    記録によると嘉永五年、神祇官統領伯王殿公文所より正一位湯泉大権現之神爾を
    勧遷したもので、神祇伯王の文書ものこされている。又文政四年には石灯篭など
    が奉加されおり、又湯泉神社と並んで薬師堂 (薬師如来と日光月光十二将軍を祀
    る )があったが、明治十三年双方とも火災により焼失した為、同年八月二日に人
    民総代伴金四郎、山口庄五郎名義で湯泉神社の建設願いが出され、又明治十五年
    六月には、薬師堂再建寄付帳も久一郎名義で残されており、双方共に再建された
    が、その後の火災で両方とも焼失し現在まで再建されぬ儘更地となっている。

    明治から現代の温泉へ

     名主の湯守役を中心に、無事平穏の日々の生活が続いたが、明治の初期に至っ
    て再び、温泉と土地に係る出入りがあったが、明治六年四月二十三日、宇都宮裁
    判所の採決があり原告被告の所有を認めず、宇都宮県に於いて取り上げる結果と
    なった。 

     これに困却した村人達は和睦結束して、県に対し温泉の払下げを申請し、総村
    結集して温泉の運用を図ることになったのである。 勿論後に温泉組合も設置さ
    れ、大正、昭和の時代へ移行していった。

     温泉は観光の起爆剤である。 観光地として今の発展を見るに至ったのは、取
    りもなおさず温泉の賜であろうと痛感する。


江戸御納戸役の高野将監と奥村玄蕃の両名が検分した結果の書
  
明和年間と見える



                          ふる里探訪 湯西川 9



                      追

     湯西川温泉の最初の温泉旅館が始まったのは、明和五年(1768)七月、で
    あると古文書の記録に記載されている。
     尚、温泉の発見については、記載された古文書は現在発見されてなく、不
    明である。 大永年間(1521−1527年)の古文書には高出村の記載があり、
    湯西川一帯に現在の各村々も存在し、既に温泉も発見利用されていたと考え
    られる。 また、県史(日光山常行三昧堂新造大過去帳)の衆徒三十六坊、
    湯西川十乗房から推測すると、山岳修験道の道筋通り温泉の発見は、さらに
    昔、 750年〜1400年頃となるが、確たる資料は今の所存在していない。




                                   孫




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